四百三十四話 未だに呼び捨てもできないくらい


 そういえば――名前で呼び合う関係性になってからもう一年以上が経過していた。


『しほ』


『幸太郎くん』


 最初は照れ混じりに口ずさんでいたお互いの名前も、今はすっかり言い慣れてしまっている。

 もちろんそれは悪い変化じゃない。むしろ、距離感が近くなったのでいいことだと思う。


 だけど、確かに……そろそろ次のステージに進んでもいいような頃合いだと思った。


「『こーくん』ってやっぱりいい感じだわ……なんかほら、かわいいっ。わたしもそういう感じの呼び方がほしいの」


 しほは間違いなくキラリに触発されていた。

 でも、同じ呼び方にするのは彼女の愛らしいプライドが許さないらしい。


「幸せ太郎くん――はお菓子の名前っぽくなるから微妙ね」


「それ、一年前にも同じこと言ってたよ」


「え!?」


 宿泊学習付近くらいだったかな?

 名前を呼ぶより先に、しほがあだなを決めようとしていたことをふと思い出した。

 でも、あの頃と同じセンスである……可愛いセンスは一年前の時点でもう完成されていたらしい。


「じゃあ、こうたくんとか?」


「その区切り方だと違う人みたいに聞こえない?」


「だったら、こうたろくん!」


「そこまで言うなら『う』も入れてほしいなぁ」


 しかし、決定までなかなか難航していた。

 しほも適当に決めたあだなでは納得できないのだろう。悩ましそうに「むむむ」と唸っていた。


「いや、でも……ここは逆転の発想なんてどうかしらっ。ここにきて逆に呼び捨てなんて言うのもありじゃない?」


「おお、それはいいかも」


 意外と、俺を呼び捨てにしている人間はいない。

 いや、叔母さんと母には名前を呼ばれるが、二人とも身内だからそう呼んでいるだけである。


 だから、存外……いや、かなり新鮮だった。


「一回呼んでみてもいい?」


「もちろん」


 頷くと、しほも俺の真似をするように大きく頷いてから、勢いよく口を開けた。


「こうたりょっ――いひぃ。ちたかんだぁ」


 でも、残念ながら呂律が追い付かなかったらしく、思いっきり舌を噛んでいた。


「きょうたろっ……こ、こうちゃろっ……………………なんで言えないの!?」


 そしてしほはキレた。


「『幸太郎くん』なら余裕で言えるのに! なんできょうちゃりょうって言えないの!!」


「うん。ものすごく言えてないね」


 普段から甘噛みする傾向はあるけれど。

 今は噛み倒していた。


 そして、その顔はりんごみたいにまっかっかである。


 ……もしかして。


「しほ、照れてる?」


「照れる!? い、今更名前を呼び捨てするくらいでそんなわけないじゃない? 幸太郎くんったら、おバカさんなのかしら?」


「じゃあ、一回でいいから呼び捨てにしてみて」


「もちろん! 楽勝よ……こ、う、た、ろ、う……ん!」


「発音がおかしいぞー」


 抗議の意図を込めてしほをジトっと見つめたら、彼女は露骨に視線をそらした。


「……わ、私って照れてるのかしら?」


「そう見えてるけど」


「本当に? ウソよ……もう一年よ? 一年以上も仲よくしてるのに呼び捨てもできないなんてどれだけ初々しいのよ! 自分のことながら恐ろしすぎるっ……幸太郎くんのこと大好きすぎるわ。でも、なんか気持ち悪くない? ちょっと重い?」


「ううん。愛情を感じて嬉しいよ」


「あー。なるほどなぁ……幸太郎くんのせいだわ。幸太郎くんがいつも私をドキドキさせるから、未だに呼び捨てもできないくらいあなたのことを好きになっちゃったのよ! つまり私は悪くないわ。幸太郎くんが悪いのよ」


「え……俺のせい?」


「うん。だから謝って!」


「分かった。ごめんなさい――って、ちょっと待って。なんで俺が謝ってるんだ???」


 責任転嫁されて思わず謝ってしまったけど、よくよく考えると俺は何も悪くなかった――。

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