三百九十三話 忘却のサウスボー


「そんな……おかしいわ。あんなにテレビで見てるのに、どうして?」


「テレビで見てるだけだから、じゃないかな」


 自分の実力の低さにしほは目を点にして驚いている。


「あははっ。見てるだけで上達するなら世の中はプロ野球選手だらけになるんじゃない? 霜月さんってやっぱりおバカさんだー」


 一方、梓はしほのきょとんとした顔を見て笑っていた。木陰で休憩したおかげで声に元気が戻っている。


 仲がいいからなのか、最近の梓はしほの失敗をよく笑うようになっていた。

 内気のくせにちょっとナマイキな気質もあって、俺の前ではたまにその顔を見せていたけれど……最近はしほもその対象になったのだろう。


「あずにゃんったら、そんな素敵な笑顔を浮かべてどうしたの? あ、もしかして私のこと好きなのかしら? ええ、私も好きよ」


「どう解釈したらそうなるの!? 嘲笑してるだけだもんっ。バカにされてる自覚ないの?」


「うふふ、私はあなたがツンデレなことも知っているわ」


「……おにーちゃん、梓はあの人苦手っ」


 俺に言わないでくれよ。

 まぁ、梓のナマイキさもしほの純粋さには負けているようだった。


「――ってか、なんかおかしくない?」


 それから、梓がふと気になったことがあると言わんばかりに立ち上がる。

 余っているグローブを手に取って、興味深そうに眺めた後に……彼女はぽつりとこう言った。


「これ、右利き用でしょ? 霜月さんって左利きなのに、投げるときは右なの?」


 ――盲点だった。

 言われてみると確かに、しほの利き腕は……左だった。

 それなのに彼女は右利き用のグローブを使っている。即ち、左利きなのに右手でボールを投げているのだ。


「え? でも、投げるときはいつも右よ?」


「まぁ、そういう人もたぶんいるだろうな」


 左利きだけどお箸は右手で持つ、とか。

 文字を書くときだけは右手、とか。

 幼少期のクセで利き腕とは逆を使う場合もあると、聞いたことはあるけれど。


「霜月さん、左手で投げたことないんじゃない? 一回試してみたらいよ」


「……それもそうね。確かに、左手で投げたことなかったわ」


 物は試し。そう言わんばかりに、しほが左手にハメていたグローブを外す。

 それから、ボールを左手で握って腕を振り上げた。


「とりゃー」


 相変わらず、掛け声に力はない。

 しかし、今度の投球は重力に負けることなく……綺麗な弧を描いて、俺の頭の上を飛び越えようとしていた。


「おっと」


 まさか届くとは思ってなくて、油断していた。

 慌ててグローブを出すも、ボールはそのまま後方へと通り抜けていく。


 運動音痴で、十メートルも届かない――そう思っていたけれど。


「すごい! と、届いたー!」


 しほは利き手を間違えていただけで、これくらいの距離であればちゃんと届くらしい。


「天才……! 私、やっぱり天才だった――!!」


 いや、天才は言い過ぎだけど。

 しかし、運動音痴と言えるほどでもないような……右手で投げた時と比較すると、すごく綺麗な投球に見えたのだ。


「そうなのね……私って、そういえば左利きだったわ。つまりサウスボー……生まれながらの天才といったところかしら。くぅ~、どうして幼少期の私は野球部に入らなかったの? 野球をしていれば、きっとプロ野球選手になれたはずなのに!!」


 いやいやいや、落ち着いて。十メートル届いただけだから。

 でも、うん……俺はやっぱり、しほのことを分かっているようで、まだまだ分かっていない。


 利き手すらすぐに指摘できないのだから……それはちょっとだけ、自分を残念に思った――。

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