三百八十七話 本当の中山幸太郎
理性のカギ。
無意識に施錠していた、自分の欲望。
見ないふりをして、気付かないふりをしていた、自らの醜さ。
綺麗な自分を演じていた。
しほに好きになってほしい。
その一心で、俺は無意識にかっこつけていた。
中山幸太郎は欲望の薄い人間である。
だから、しほと触れ合っていても理性はそのまま。
彼女を大切に思っているから、丁重に……大切に、まるでガラス細工の彫刻のように扱っていた。
触れると壊れるお姫様の彫像。
俺にとって、しほはそんなイメージがあったのかもしれない。
でも、しほの愛を感じて……自らの感情表現が不甲斐ないことを知った時、頭の中で音が鳴った。
――パリンッ。
ガラスが砕けたような音は、しほの彫像を破壊した音だろうか。
あるいは……俺の理性のカギが、砕けた音かもしれない。
「しほ」
一言、名を呼ぶ。「どうしたの?」としほが口を開く前に、彼女の両肩を掴んだ。
「…………へ?」
俺らしからぬ乱暴な行動に、しほは驚いている。
目を小さな点にして、瞬きもせずに俺を凝視していた。
いつもなら、ここで手を離していたかもしれない。「ごめん、いきなり」なんて曖昧に笑って、はぐらかす……そんなことばかり繰り返していた。
――我慢するなよ。
かっこいい中山幸太郎を演じようとする自分を、心の中で冷笑する。
――お前は、主人公になったつもりか?
ラブコメの主人公であれば「お前のことが大切だから」とか言って、自分の理性を抑え込むだろう。
でも、俺は主人公なんかじゃない。
いや、そもそも――主人公なんてこの世界に存在しない。
人間に役割はない。俺たちはキャラクターじゃない。やるべきことも、やってはいけないことも、そんな誰かが決めたようなルールや法則に従う意味なんかない。
自分で自分に、枷をしていた。
俺はずっと、そうだった。
モブキャラだから。
中山幸太郎は優しさだけが取り柄の人間だから。
穏やかなところがしほに受け入れられているから。
理由を並べて、感情に蓋をして……それで本当にいいのか?
――そろそろ、素直になれよ。
ああ、そうだな。
もう、自分に正直になるべきだよな。
――違うだろ。なる『べき』とか、そういうことじゃない……『なれ』ばいいだけの話だろ?
いや、でも……。
――やれ。
モブキャラの皮をかぶっていた中山幸太郎に、心の中の中山幸太郎が命令を下す。
その瞬間――体が勝手に動いていた。
「――大好きだよ」
彼女肩を引き寄せて、その唇に自分の唇を重ねる。
許可なんてない。合図も出していない。ただ、衝動のままにしほにキスをする。
そうするべきだから、したわけじゃない。
そうしたいから、しただけだ。
――そうだ、それでいいんだよ。
心の中の俺が、笑う。
その笑みは……清々しくて、気持ち良かった。
――いつか、お前を殺す。
そして、堂々と宣戦布告された。
――モブキャラでいようとする俺なんて、もう不要だ。
ああ、そうか。
そうなんだ……俺はようやく、見つけたんだ。
中山幸太郎は、ずっと何かの役割を演じないと自分を保てなかったけれど。
しかし、ようやく……本当の『中山幸太郎』を見つけたのだと思う。
いや、見つけたと言うよりは、出てきたと言う方が適切なのだろうか。
やがて彼は、モブキャラの俺を殺して『中山幸太郎』として生きていくのだろう。
その時まで、かな。
『モブキャラがハーレム主人公の幼馴染ヒロインに愛される』
そんな俺の物語が終わるのは……もうそろそろ、かもしれない――
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