三百八十二話 感情の教科書


 おもちゃを横取りされて泣いている子がいた。


 ――他のおもちゃで遊べばいいのに。


 先生に抱き上げられて笑っている子がいた。


 ――運ばれているだけなのに。


 嫌いな食べ物があって怒っている子がいた。


 ――食べなければいいのに。


 母親が迎えに来なくて寂しそうにしている子がいた。


 ――待ってたらどうせ来るのに。


 ……幼少期、他の子供たちのリアクションを、理解できなかった。

 何があっても、何が起きても、ぼんやりしていて……周囲の人から『大人しい』とか『ぼんやりしている』と言われる子供だったけれど、それは単純に表情の作り方が分からないだけだった。


 ――あの子たちは、どうしてそんな顔をするのだろう?


 意味が分からなかった。

 子供なりに理解しようと努力したけれど……いくら考えたところで、自分の内側にない『感情』というものを理解できるはずがなかった。


 そんな時に母親にこんなことを言われた。


『本だけは読んでおけ。愚者は経験に学び、賢者は歴史に学ぶ……まぁ、お前の年齢であれば難しい本は読めないだろうが。絵本でいいから、読む習慣をつけておけ。いつかきっと、お前の力になる』


 まだ母が俺に期待していた時だったと思う。

 俺に英才教育を施そうとしていた時期に、母親からたくさんの絵本を買い与えられた。


 最初は本に対して興味などなかった。

 母に言いつけられたから読んでいただけで、別に大した思い入れもない。

 しかし……本のおかげで、俺は『他人』について理解することができたのだ。


 ――そっか。泣くのは、悲しいから。笑うのは、嬉しいからなんだ。


 理解できなかった行動の理由を知った。でも、今度は行動の原因……『感情』が分からなかった


 ――でも、悲しいとか嬉しいって、どういう時に思うんだろう?


 人魚姫を見た。王子様と一緒になれない人魚姫が泣いているのを見て、それが悲しいとうことを知った。


 シンデレラを見た。王子様と結ばれて笑っているシンデレラを見て、それが喜びであることを理解した。


 本が、感情を教えてくれた。


 ――こういうことが起きたら、こういうリアクションをすればいいんだ。


 やっと、他者の感情を理解できるようになって……しかし、だからといって自我の形成が遅かったことが、改善されたわけじゃなく。


 結局、俺は能動的に感情を表現できない。

 何かが起きて初めて、リアクションをすることができるだけ。

 まるで、プログラムされたロボットのように、命令を待つことしかできなかったのだ。


 そんな人間だから、母は俺に失望した。


『物覚えが悪い……いや、覚えようとする意志が弱いのか? 執着がなさすぎる。私の息子とは思えないな』


 周囲の人間は俺をこう思った。


『中山君って、何を考えているのかよく分かんないね』


 それでも俺は、どうしていいか分からなかった。


 ――中山幸太郎って、いったい『何』なんだろう?


 だから、本を読み続けた。

 自分が何者なのかを探し続けて……そうして辿り着いたのが、どの本にも登場するのに、どの本でも大して記憶に残らないような、そんなキャラクターだったのだ。


 ハッキリとそれを認知したのは、中学生の時。

 クラスメイトだったキラリから『ライトノベル』という本を借りるようになった時期である。

 いわゆる、キャラクター小説というものを初めて読んだ。

 キャラクターごとに決まった役割があるその本を見て、やっと分かったのだ。


 ――中山幸太郎って……なんか『モブキャラ』みたいだな。


 誰の記憶にも残らないような。

 どの作品にも出てくるのに、どの作品でも活躍しないモブに、俺は自分を重ねたのである。

 でも……その時はまだ、自分がそうであるとは思っていなかった。


 だって、ライトノベルという本はモブキャラのようなキャラクターが主人公になっていることが多い。

 むしろ、この時は『もしかしたら主人公かも?』と思いそうになったくらいである。


 まぁ、そんな妄想は竜崎との出会いで粉砕されるわけだけど。

 そして俺は、高校生になって自分が『モブキャラである』と、そう思ったのだ――

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