第三百四十四話 『あなた』が好きなのに

【霜月しほ視点】


 ――しほは幸太郎が好きだ。


 穏やかなところも、聞き上手なところも、しほにだけ笑ってくれるところも、からかったらすぐに照れてしまうところも、いつもがんばっているところも……陳腐な表現になってしまうが、彼女は幸太郎の全部が好きだ。


 でも、だからって幸太郎のやること全てを肯定しているわけじゃない。

 彼女には許せないことがいくつかある。


 過去の例を挙げるなら、幸太郎の自己否定を彼女は許容しなかった。

 自分なんてどうでもいいと考える彼のクセは、彼女にとって本当に許せないもので……しかし最近は、そういう卑屈な部分も徐々になくなってきたと感じている。


「……ねぇ、幸太郎くん。手でも繋ぎましょうか」


 春休み。今日はいい天気だったので、のんびり散歩をしていた。

 あてもなく適当にブラブラしていただけだったのだが、手もブラブラしていて手持ち無沙汰だったので、彼女は彼の手を握ることにしたのだ。


「ああ、うん。いいよ」


 すると、彼はためらうことなく手を差し伸べてくれた。

 そんな幸太郎に、しほはニッコリと笑いかける。


「今日はそういう日なのね?」


「……そういう日って、どういうこと?」


「いえ、なんでもないわ。むふふっ」


「そんな顔されると、気になるんだけどなぁ」


 含み笑いを見せると、彼は困ったように頬をかいた。

 その仕草がしほは好きだった。


(本当はあなたから手を繋いできてほしかったけれど……まぁ、許してあげようかしら)


 今日はいい日だなぁ――と、しほは機嫌よく心を弾ませる。

 繋がれた手をにぎにぎと動かしながら、ぼんやりと幸太郎のことについて思いを巡らせていた。


(今日は……音の揺れがない日ね)


 彼女は最近、幸太郎の様子がおかしいことに気付いている。

 聴覚が優れていて、感受性の鋭い彼女には……彼の小さな変化が『聞こえて』いた。


(前は、抱きしめてって言っても動揺してたけれど、今日は大丈夫だったわ)


 当たり前のように幸太郎が手を差し伸べてくれた。

 そんな些細なことが、彼女は本当に嬉しかったのである。


(自分のことも、ちゃんと大切にできるようになったかしら?)


 前までは、俺なんて――と言って、しほの手を握ることすらためらうような人間だった。

 卑屈で、自己否定ばかりしていて、自分に自信がなくて……それがすごく、もどかしかった。


 だけど、最近はこうやって手を握ってくれるようになった。

 しほに触れることすらおこがましいと思っていた彼は、もういない。


 だからこそ……時折現れる『音の揺れ』を、彼女は気にしている。


(今日は、ちゃんと幸太郎くんだけど……あの時、彼は誰になっているのかしら?)


 しほには分かっている。

 幸太郎が、たまに違う誰かになろうとしていることを、察している。

 恐らくそれは、幸太郎にとっては無意識だろうが……心の機微まで聞こえてしまうしほにとって、その変化はすごく不可解なものだった。


(わたしが好きなのは『幸太郎くん』なのに)


 霜月しほが愛しているのは、幸太郎の全てである。

 だから、幸太郎が違う何者かになることを、彼女はイヤがっていた。


「ずっと、こうやって『あなた』と手を繋げたらいいのに」


 繋がっている手をブンブンと振りながら、幸太郎に笑いかける。


「そうだね……俺も、しほと手を繋いでいたいかも」


 その意味深な一言に、彼はやっぱり何も気づかなかった――

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