第三百四十三話 壊れることを心配したあなたと、壊れてもいいと思った私


『抱きしめて』


 唐突なお願い事に、体が動かなくなった。

 そんな、いきなり触れるなんて……やっぱり、ためらいがないわけがなかった。


「んっ」


 しかし、彼女は待っている。

 せかすようにあごをあげて、両手を広げた体勢で、俺に「来い」と態度で言っていた。


「……ちょっと、いきなりすぎないか?」


「愛はいつだって唐突よ? 計画的に芽生えるとしたら、それは愛じゃない別の何かだと思うわ」


「し、しほにしては珍しいな」


「え? 何が?」


「いや、ちゃんとしたこと言ってるから……」


「何を言ってるの? 私はいつもちゃんとしてるわ」


 果たして本当にそうだろうか。

 結構、ちゃんとしてない場面の方が多い気がするけど、今は筋の通ったことを言っていた。


 確かに、計画的な愛には打算を感じるので、そんなものは存在しないのかもしれない。


「まぁ、昨日アニメで聞いたセリフなのだけれど」


 そういうことか!

 しほにしては高度なことを言っているような気がしていたけど、やっぱりそうだったみたいだ。


 びっくりした……いや、それは今はどうでもいいのか。

 雑談は続いているが、しほの手はまだ諦めないと言わんばかりに広げられている。


 俺が抱きしめないと、いつまでもその状態でいるような気がした。


「……じゃ、じゃあ、行くぞ?」


「ええ。もちろん、来ていいのよ? 遠慮なんかしないでいいのに」


「ありがとう。じゃあ……」


 ゆっくりと両手を伸ばして、彼女の背中に手を回す。

 そのまま輪を狭めるように力を入れたら、しほの小さな体がスッポリと収まった。


「……ふむふむ、悪くないわ。ちょっと力が弱いから、もうちょっとギュッとしてほしいけれど、とりあえず及第点かしら」


「評価が厳しいなぁ」


 笑って、ちょっとだけ力を入れる。

 俺としては十分、抱きしめたつもりだけど……しほは全然、満足できなかったみたいだ。


「――えいっ」


 今度は彼女から抱きしめてきた。

 俺の力とは比べ物にならないほどに、強い力で……この小さな体のどこにそんなパワーがあったのか、と驚くほどにしほはギュッと抱きしめている。


「ちょ、ちょっと息苦しいかな」


 息が止まりそうなほどの抱擁である。

 そっと背中を叩いてあげると、しほは力を緩めてくれた。


「……むむっ。これは少し、問題ね」


 何かが不満だったのだろうか。

 彼女は先程と同じように難しい表情を浮かべてから、俺の鼻先をちょこんとつついた。


「壊れることを心配したあなたと、壊れてもいいと思った私……何が違うと思う?」


 唐突な問いかけは、即答できるほど簡単なものではなくて。

 何が正しい答えなのか……どう言えば、しほが傷つかずに済むのかが、すぐに分からなかった。


「うふふっ……まぁ、そうでしょうね。幸太郎くんに分かるわけがないわ。正解を探してしまっているのだから、当たり前よ」


 俺が迷うことも、しほはもう分かっていたようだ。


「えっと、ごめん。しほの言いたいことの意味が、分からなくて……」


「いいわ。今はまだ、理解しなくても大丈夫。気にしないで……ただ、音がちょっと揺れているだけだから」


「……揺れ?」


 そういえば、久しぶりにその表現を耳にした。

 聴覚の鋭いしほは、度々こうやって独特の感性で物事を語ることがある。

 最近はすっかりその頻度も減っていたのに、いきなりだった。


「幸太郎くんは、あと少し時間がかかりそうね」


 それからしほは、優しく笑った。

 まるで、小さな子供を見るような目で……俺を見守るかのように。


「だけど、もうちょっとで……分かるはずだから」


 しほらしくない、意味深なことを言っている。

 彼女に似合わない神妙な表情で紡がれたセリフに、俺はどうしていいか分からなかった。


 今、目の前にいるのは本当にしほなのだろうか?

 俺の知らない彼女が、そこにいた――

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