第三百四十話(プロローグ) おさらいとテーマ
――しほは耳がいい。
先天的に聴覚の鋭い彼女にとって、『音』とは五感に勝る六番目の感覚だった。
彼女は人の感情を音で聞き分ける。
明るい人からは陽気な音が。
穏やかな人からはゆったりとした音が。
怒っている人からは荒々しい音が。
悲しんでいる人からは寂しい音が。
色々な音が、その人の『性質』を表すのだ。
通常であれば会話を通してしか把握できない人間性を、彼女は瞬時に見抜くことができる。
原理などない。
ただ、耳がいい彼女だからこそ、普通の人間には理解できない超常的な感覚と言っても差し支えないだろう。
それは、生まれながらに彼女が持っている、人と違った特徴。
幼少期は聞こえすぎる音のせいで苦労したこともあった。人付き合いが苦手なのは、感受性が強すぎる弊害でもある。
彼女が真に無防備でいられたのは、無償の愛を注いでくれる両親だけ。
それ以外の人間は、しほにとって『異音』だった。
当たり前だが、欲望のない人間などいない。それは生きる上で必要なものおであり、誰もが持っていて、しかし隠している……それをみんな分かっている上で、交友関係というものは成り立つのだろう。
しかし、しほはあまりにも潔癖すぎた。
欲望の軋む音を微かに耳にしただけで、彼女は相手を警戒してしまう。
愛情深い両親に育てられたのは、良いことでもあり悪いことでもあったのだろう。
彼女は、悪意に対する耐性が限りなく弱かった。
ずっと、人を遠ざけて生きてきた。
そのせいで、友人など一人も作ることはできなかった。
おかげで、竜崎龍馬に付きまとわれていた。
――それもすべて、高校生になるまでの話である。
今でこそ無邪気で、明るくて、よく笑っているが……中学時代までの彼女は、笑うことが滅多にない冷たい少女だった。
無表情で、他者を寄せ付けず、孤独に毎日を過ごしていた。
しかし、彼女の本質は『寂しがりや』の『甘えたがり』で、しかも『かまってちゃん』なのである。
その状況が、辛くないわけがなかった。
高校生になるまで、彼女は毎日のように俯いていた。
この先も孤独で暗い人生を歩むのか――と、彼女らしくないネガティブな感情を抱いていた時期だってある。
人見知りで、会話が苦手で、臆病で、内気で、我慢ばかりしているような……幸太郎の視点にいない『霜月しほ』は、そんな人間なのだ。
だからこそ、彼女にとって『中山幸太郎』は真の意味で特別な存在なのである。
しほや龍馬のような、特別性を有している――というわけじゃない。
幸太郎は、しほにとって純粋にかけがえのない存在だった。
生まれて初めて、悪意のない人間と出会えた。
こんなに透明で、綺麗で、心地良い音を発する人間は初めてだった。
彼のおかげで、しほは緊張せずに人と会話できるようになった。最近では、梓とも自然に話せるようになって……これからはきっと、見知らぬ他人とも平気で話せるようになるだろう。
しほがいい意味で変われたのは、幸太郎のおかげだ。
幸太郎の隣にいることが、彼女にとっては幸せの絶対条件である。
だとしたら……一つ、疑問が浮かび上がる。
どうして彼女は、幸太郎と付き合っていないのか。
しほは何を思って、幸太郎と恋人になろうとしないのか。
今でも十分、近しい関係にいる。
だが、二人はあと一歩を踏み出せていない。
その理由は、単純なものだった。
『幸太郎くん。私は――メインヒロインなんかじゃないわ』
彼女は気付いている。
幸太郎が、ありもしない『何か』に拘っていることを。
物語に縛られて、身の回りの人間にキャラクターを当てはめて、日常に起こる出来事を『ストーリー』として処理していることを、彼女はなんとなく察していた。
つまり、最終章は彼が物語から脱却するための物語。
現実ではなく物語ばかり見ている幸太郎が、しほのことをちゃんと『見て』『愛する』までの、お話である――
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