第三百二十七話 決別


「――もしかして、お別れを言いたかったの?」


 最初からずっと穏やかなまま、梓に何を言われても表情を崩さない龍馬を見ていると、なんとなくそんなことを感じた。


「わざと梓を怒らせて、罪悪感がなくなるようにしてくれたの?」


 怒りに我を忘れていては気付けなかった。

 しかし、よくよく考えてみると……龍馬の様子はなんだか不自然だったのである。


 まるで、梓との会話を噛みしめるかのような。

 それでいて、どこか寂しさを漂わせるその表情が、別離の雰囲気を醸し出していたのだ。


「……そんなわけないだろ。俺は自分勝手な人間だからな」


 自嘲めいた言葉に、梓は自分の耳を疑った。

 良くも悪くもずっと自信満々だった龍馬だからこそ、他の誰も持っていないような特別感があった。


 でも、今の彼にはそれがない。

 どこにでもいるような『普通の少年』に見えたのだ。


(梓の思い描いていた『竜馬おにーちゃん』って、やっぱり幻想だったんだろうなぁ)


 とはいっても、別に龍馬に対して幻滅や失望したわけじゃない。

 ただ、理想と現実を重ねてしまった自分の愚かな行為を、省みていた。


 その点に関しては龍馬にも酷いことをしてしまった――と、梓は自分の幼稚さを恥じる。


 龍馬だけが悪かったわけじゃない。

 梓だって間違えていた。だからこそ、先程しっかりと謝れた自分を、梓は褒めてあげる。


(よく頑張ったね。だから、もう……これ以上は、頑張らなくていいよっ)


 ――足が震えていた。

 寒さによる現象ではなく、異常な緊張に体が反応していたのだ。

 手のひらからは汗がにじんでいて、心臓は先程からバクバクと音をかき鳴らしていて、油断すると泣きそうになるくらいに、精神が不安定で。


 龍馬を前にしていると、梓はもう『普通』ではいられなくなっている。

 まるで、かつての霜月しほのように。


 根が臆病で、繊細な彼女は……一度の失恋を『なかったこと』になんてできなかった。龍馬が主人公として振る舞っていた時ですら、ご都合主義の力があっても、梓が物語に戻ってこれなかったのは、そういうことなのである。


 中山梓はまだ、幼すぎる。

 竜崎龍馬を愛するには、本来であればもっとたくさんの時間が必要だった。

 でも、その時間を待つほどの余力が、もう梓には残っていない。


 だから――これでもう、終わりなのである。


「……じゃあ、もう行くね。寒いし、帰るよ」


 そう伝えると、龍馬は一歩こちらに歩み寄ろうとする。


「――っ」


 しかし、それは一瞬のことだった。

 すぐに彼は自分を制するように足を止めて、梓に力のない笑みを向ける。


「俺と話している時、梓は……ずっとそうやって、震えていたんだな」


 もう、彼は鈍感じゃない。

 ちゃんと梓のことを見て、自分がいかに彼女を狂わせているのかを、思い知る。

 それでも以前までの彼なら感情に身を任せて梓に詰め寄っていたかもしれない。しかし、今の龍馬は――ちゃんと、地に足をつけていた。


 だから、これ以上梓を傷つけないために、身を引いたのだ。


「最後に話ができて良かったよ。梓……帰り道には気をつけろ。体も冷えるだろうから、家に帰ったちゃんと休めよ。それから――元気でな」


 ゆっくりと手を振る彼に、梓は最後くらいは――と懸命に笑った。

 そして、わずかに残った勇気を振り絞って。




「――バイバイ。龍馬おにーちゃんっ」




 以前のように、ニッコリと笑って手を振った。

 その後はすぐに背を向けて、逃げるように走り出す。


 だから、龍馬がどんな顔をしていたのかは、分からない。

 いや、分かりたくなかった。


 ――これで、やっと……終わったよ。おにーちゃん?


 果たしてその『おにーちゃん』は、幸太郎なのか、亡くなった実兄なのか、龍馬だったのか。


 その答えは本人にも分からなかった――。





 かくして、かつてサブヒロインだった少女が、本当の意味で舞台から消えた。


 ハーレムメンバーでもなく、キャラクターでもなくなった彼女は、『中山梓』として人生を歩んでいく――

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