第三百二十六話 そして


 梓は急な龍馬の登場に動揺していたとはいえ、この時はまだ冷静さを保っていた。

 しかし、彼女が突如として取り乱したのは、次の言葉をきいてからだった。


「ごめん……本当に、ごめん」


 龍馬のその一言に、梓は目の前が真っ白になった。

 そういうことじゃないんだ――と、彼女は歯を食いしばる。


「謝ってほしいなんて思ってない」


 そんな無意味なことを求めてなんかいない。


「梓が正しいことを言ってるわけじゃないんだよ? 勝手に梓が好きになって、勝手に失恋して、勝手に傷ついて、勝手に失望しているだけ――龍馬くんにとってはそうなんだよ?」


 分かっていない。

 梓がどうしてこんなに傷ついているのか、今に至ってなお龍馬は理解できていない。


 そういうところに、垣間見えるのだ。


「そんなに、梓と向き合うつもりなんてないんだね」


 むしろ反論してくれた方が、まだ気持ちをぶつけられた気がして良かったのに。


 ただ謝って何になる?

 上辺だけの謝罪が次につながるとでも?


 そもそも、次があるなんて梓は考えていない。この場で打ち砕かれてもいいと、そういう覚悟で龍馬と向き合っているのに……一方の彼は、ただ「梓がいたから話しかけただけ」というスタンスを崩さない。


 結局のところ――梓と龍馬の関係は、最初から間違っていたのだ。


「……梓は、龍馬おにーちゃんに可愛がられるだけの人間なの? 同じ対等な人間として、向き合ってくれないの?」


 呼称すら安定しない梓は、明らかに取り乱していた。

 ずっと思い悩んで、それでも口にはするまいと心に秘めていた苦悩を、感情のままに吐き出す。


「龍馬おにーちゃんにとっての梓は――ペット以上の存在には、なれないの?」


 何かあるたびに甘えてくるから、甘やかしているだけ。

 粗相をしても咎めず、ただあやして処理するだけ。

 懐いてくれて当然で、自分がいないとダメだと理解していて、だからこそ対等には見ていない存在。


 それ以上の関係を、梓は構築することができなかった。


「――梓は……間違っていた。同級生の他人を『おにーちゃん』にするなんて、そんなのおかしいに決まってる。だって、血も縁も繋がってないんだから……愛情に責任なんて持ってくれないのに、どうして龍馬くんを『おにーちゃん』にしちゃったんだろうね」


 それが二人の関係がこじれた問題の根本であり、これからも上手くいかないことを示唆する障壁でもある。


 その壁を乗り越えるには――あまりにも、二人の認識がかけ離れていた。

 だから梓と龍馬は『間違えて』しまったのだ。


「梓は――!」


 彼女は感情のままに、龍馬へと想いをぶつけようとしてしまう。

 しかし、その寸前にまたもやポケットの奥のチョコレートを思い出して、急に自分を取り乱した。


 ――他人のせいにしたらダメだ。そんなの、昔と同じだから。


 こんな自分を見たら、きっと幸太郎は嗜めるだろう。

 だから、彼女は文句を言うことをやめた。


 その代わりに、彼女はそっと目を伏せる。

 龍馬から視線をそらして、小さな声で囁いた。


「……梓も、ごめんなさい」


 蚊の鳴くような小さな声。

 昔の龍馬なら届いていないであろう微かな声だったが。


「そっちこそ、謝らなくていいのに」


 今の彼には、ちゃんと聞こえていた。

 梓が取り乱してもなお、彼の穏やかな表情は変わらない。


「そうだよなぁ……もう、全部遅いよな。前の俺みたいなことを言ってみても、意味なんかないよな。梓との関係は――俺が終わらせちゃったから」


 まるで、事前に覚悟はしていたかのように。

 拒絶されても、彼はずっと表情を崩さなかった――

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