第三百二十一話 大切にしてくれる人
「どうせ失敗するだろうから――って、ママが材料を買いすぎちゃったのよ。だから、あずにゃんも遠慮しないでいっぱい作ってね?」
梓がまだチョコ作りに着手していないのは、遠慮しているからだ――としほは好意的に解釈していたらしい。
(別にチョコなんて作るつもりなかった――って言ってもいいのかな?)
どうして梓がチョコを作ると思い込んでいるのだろうか。
というか、そもそもの話。
(そういえば……梓は、誰にあげるの?)
ここにいたってようやく、梓が迷っている問題の本質に気付いた。
どんなチョコを作ればいいのか分からないのは、誰にあげるかを考えていなかったからである。
(え? ど、どうしよう……!)
真っ先に顔が浮かんだのは――前に大好きだった、竜崎龍馬だった。
彼は今、どうやら苦しんでいるらしい……だから、梓がチョコをあげることで、少しでも元気になってくれるかもしれない。
そう考えると、龍馬にチョコをあげるのも悪くない気がした。
だけど――どうしてか、手が動かない。
何かが梓の動きを邪魔しているような気がしたのだ。
まるで、誰かに手を押さえつけられているような。
謎の圧迫感を覚えて身動きが取れなくなっていたのである。
「なんで……」
無意識に、言葉が漏れる。
なんで動いてくれないの――と、自分自身への言葉だったのだが。
「え? なんで私が幸太郎くんにチョコをあげるのか、気になってるの? あらあら、知りたいのなら教えてあげようかしら? むふふ、どうして私が幸太郎くんにチョコをあげたいのか――それはね!!」
しほが自分に話しかけられたと勘違いしていた。
しかも、言葉を大幅に付け加えて、自分が話したい内容になるよう歪曲していた。
「ええ、気になるのも仕方ないわ。だって私は生まれてから一度も男の子にチョコを渡したことがないもの。パパにすら渡したことがないくらいよ? だってママが私に嫉妬するから渡せなかったの……って、それはどうでも良くて! つまり、生まれて初めて男の子にチョコをあげようと思った理由を、聞かせてあげるわっ」
聞いてもないのに、彼女は語る。
「だって――幸太郎くんが、私を大切に思ってくれたから」
しかし、無駄口の割にはとてもいいことを言っていた。
「大切な人だから、何かしてあげたくなるの。つまり、バレンタインはただの口実ってことだわ。少しでも彼に感謝の思いを伝えることができたらいいな――って、思っているだけなの。あと、喜ぶ顔が見たいから、というのもあるわ」
その言葉を耳にして、梓はハッと顔を上げた。
「大切に思ってくれた……?」
しほの言葉を繰り返す。
そして、内容をしっかり考えてみて、ようやく梓は分かった。
(龍馬くんは……龍馬おにーちゃんは、大切にしてくれたわけじゃない)
梓は彼のことを大切に思っていた。
だけど、龍馬は梓のことを対して何とも思っていなかった。
(もし、梓がチョコをあげたとしても……本当に、喜んでくれるのかな?)
龍馬の喜んだ顔を思い浮かべようとする。
でも――不思議と、頭の中には龍馬の苦笑した顔しか出てこなかった。
(だから、梓は作れなかったんだ……!)
ここでようやく、分かった。
龍馬にあげてもいいかもしれないと思ったが、体が動かなかったのはそのせいだと、理解したのだ。
それと同時に――誰が梓の手を押さえつけていたのかも、分かった。
(おにーちゃんだ……おにーちゃんが、梓を守ろうとしてくれたんだ……!)
梓が間違った道を進もうとした瞬間に、彼がそれを阻んだ。梓の手を掴んで引き留めたのである。
もちろんそれは幻覚で、錯覚だ。何かしらの超常的な力が働いたわけじゃない。
それでも、梓は幸太郎に感謝していた。
(また、傷ついちゃうところだったのかな……)
自分が傷ついて苦しいのは、自分だけじゃない。
自分のことを大切に思ってくれる、家族がいる。
その人を悲しませたくないと、梓は無意識に思っていたのである――
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