第三百二十話 動けない梓と迷いのないしほ

 ここのところ、梓はずっと悩んでいた。

 竜馬のことで頭がいっぱいになっていて、自分の感情がグチャグチャになりそうだったくらいである。


 かつて、梓は彼のことが大好きだった。

 理想のおにーちゃんだと思っていたし、男性としても魅力的だと感じていたし、龍馬の隣にいること以上の幸せなんてないと本気で思っていた。


 だけど、今もそうなのかと考えてみると――迷いなく首を縦に振ることはできなかった。


(梓は、何がしたいんだろう)


 どうすれば正解なのかが分からない。

 何を選択すればいいのか、どんな行動をとればいいのか、どんなことを思えばいいのか――考えすぎて、もう訳が分からなくなっている。


 しほが襲来したのは、そんなタイミングだった。

 梓もなんだかんだ思考がネガティブになりつつあったこと自覚していた。仕方なくというそぶりではあるが、しほの誘いを断り切れなかったのは、気分転換になると思ったからだったのだ。


 不思議なことに、しほが隣にいると悩んでいることがバカバカしいと思えてしまう。

 だって、彼女は何も悩まずにとても幸せそうなのだ。


「あずにゃん、チョコレートの作り方って知ってる? あのね……実は、チョコレートを溶かすのよっ!」


 一般的な常識を仰々しく語るしほを見て、梓は首を傾げてしまった。


(なんでこの人は普通のことを言ってドヤ顔してるんだろう?)


 料理をしない梓だってその程度のことは知っている。


 本格的なチョコレートであればカカオ豆から作るだろうが、素人が着手するには少し敷居が高い。バレンタイン程度なら市販のチョコレートを溶かして、生クリーム、ミルク、砂糖、ココアパウダーなどを加えてあとは整形するくらいのはず。


(梓は何を作ろうかな?)


 あるいは、ガトーショコラ、生チョコ、トリュフ、ケーキなどにすると見栄えが良くなるのでいいかもしれない。ただしそれらを作るには料理の腕も必要だと思うので、梓はすぐに諦めた。


「どうしよう……」


 台所で、材料を前から梓は動けないでいた。

 もうしほはエプロンまで着用してチョコづくりを始めているというのに、梓は一歩も進めずにいたのだ。


「霜月さんは何を作るの?」


「おねーちゃんはミニチョコレートを作るわ。市販のやつを湯煎して、一口サイズにするの」


「それだったら市販のチョコレートが小さくなっただけだと思うよ、霜月さん?」


「大丈夫。溶かしたチョコレートにカカオの純度が高いチョコを混ぜて、ちょっとだけ味をビターにするという難易度の高い技を使うもの。売られているチョコと一緒にするのは邪道だわ。あと、おねーちゃんだから。私は霜月さんじゃないわ」


「……あなたは霜月さんだと思うけど。でも、思ったより普通のチョコを作るんだね。てっきり、手の込んだやつにチャレンジして失敗すると思ってた」


「あずにゃんにとって私は霜月さんである前におねーちゃんなのよ……あと、難しいものはママに全部却下されて、これしか作れなくなっちゃったのよ。ほら、今もあそこで監視しているでしょう? ママは料理だけには厳しいから、言うことを聞くしかないわ」


 確かにリビングからしほの母親はずっとこちらを見ていた。

 梓と目が合うと、彼女は静かに微笑んで手を振ってくれた。

 ちょっと人見知りしていた梓はぺこりと会釈を返して、しほの方に視線を戻した。


 なんだかんだ、しほを見ていた方が安心するのである。

 彼女と一緒にいるときの梓は、ともすれば幸太郎の隣にいるときよりも、自然体かもしれない。


 自分が『妹』であることすらも忘れて、ただの中山梓でいられるのだ――

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