第二百八十七話 回想その14

 ――夜。いつもよりも大分遅い時間になって、ようやく梓が帰ってきた。


「ふんふ~ん♪」


 ただいまも言わないまま靴を脱いで、そのまま二階の自分の部屋に行こうとする彼女に、俺は慌てて声をかけた。


「梓、ちょっと待ってくれ……今までどうしてたんだ? 遅くなるなら、連絡してくれよ。心配したんだから」


 何か事故に巻き込まれたのかと不安だったので、無事に帰ってきてくれたことは嬉しい。でも、だからって約束を守ったことは、見過ごしていい問題じゃない。


 俺は一応、両親と叔母さんの代わりに梓を守る義務がある。

 ちゃんとした生活を送る、という約束をしたからこそこうやって二人だけで暮らしているのだから、梓の夜遊びは問題だった。


「ちょっとこっちに来てくれ。少し、話をしよう」


 リビングから手招くと、梓は露骨にめんどくさそうに息をついていた。


「はぁ……せっかく、気分が良かったのになぁ」


 いつもの梓なら、悪いことをしたら『ごめんなさい』と言えたはずなのに。

 ちゃんと反省して、次から同じ過ちをしないということであれば、別に話をする必要すらない。


「そうは言っても、俺たちはまだ子供だぞ? 両親と叔母さんとも規則正しい生活をするようにって言われてるんだから……あんまり、夜に出歩くのは良くないよ。それで、何をしてたんだ?」


 だけど彼女は、俺の言葉を億劫そうに聞いていた。


「…………別に、おにーちゃんには関係ないでしょっ」


「関係あるだろ。家族なんだから」


 家族。そのワードに、梓はきょとんと首を傾げる。

 それから、少し遅れて……何が面白いのか、クスクスと笑いだした。


「家族(笑) 梓とおにーちゃんは、家族かぁ……果たして本当にそうなのかなぁ?」


 ――ゾクっとした。

 目の前にいるのが、まるで梓じゃない誰かのようで……気味が悪かった。


 こんなの、梓らしくない。

 彼女の笑顔は、もっと人懐っこくて愛らしかった。

 だけどもう、彼女はそんな笑顔を作らない。


 キラリと、結月と、同じように……梓もまた、小バカにしたような笑みで俺を嘲笑っていた。


「梓もね、ずっとおにーちゃんのことを『おにーちゃん』と思おうとしてたよ? だけどね、今日気付いちゃった。おにーちゃんは、やっぱり血が繋がってない他人なんだなぁって……梓の『おにーちゃん』にしては、ずっと違和感があったんだぁ」


 そうして、彼女もまた俺に離別の言葉を告げたのだ。


「梓の本物のおにーちゃんは、幸太郎おにーちゃんじゃないよ。本物のおにーちゃんはね……『竜馬おにーちゃん』なんだよ!」


 そう告げて、梓は踊る様にクルリとその場で回った。

 竜崎のことを考えるだけで、彼女はこんなにも上機嫌になるらしい。


「だからね、『帰って来るのが遅い』なんておにーちゃんっぽいこと、言わなくていいよ。無理して『おにーちゃん』をしなくてもいいの……梓は、竜馬おにーちゃんにいっぱい甘えることにしたから、おにーちゃんはもういい」


 その言葉が、ショックじゃないわけではなかった。

 だけど、何を言われても両親と叔母さんに『梓を任せた』と言われているわけで、簡単に折れることはできなかった。


「そんなこと言うなよ…父さんも、母さんも、心配するぞ? 叔母さんだって、梓が夜遊びしたら怒ると思う。だから、約束は守った方が……」


「育児放棄している人たちとの約束なんて、意味があるのかな」


 ――その一言で、俺は方便さえも失った。

 

「おにーちゃんは、そうやって誰かのルールに従って生きるのが好きだよね。間違ってるって分かってても、その規則通りに動こうとするところとか、不気味だと思う。梓は、絶対にそうなりくないや」


 彼女は更に言葉を重ねる。

 棘だらけの言葉が、次々と俺に突き刺さっていく。


「自分の意思はないの? おにーちゃんって、本当に何を考えているのか分かんないよ……言われたことだけを淡々とやって、それで満足なの? そういう人生でいいの? なんかそれって、ロボットみたいでつまんないや」


 ニコッと笑ってはいるけれど、それは同情の笑みだと分からない程、俺はバカじゃない。


 もう、梓の心が俺から離れていることも、この時にようやく気付けた。


「梓は、これからも夜は竜馬おにーちゃんのお家で遊ぶよ? 一緒にテレビを見たり、買い物したり、ごはんを食べたりするの。今まで、ずっとできなかったことをするんだぁ……えへへ~、楽しみ♪」


 そこまで言ってから、梓は俺に背を向けた。

 リビングから出て、彼女は自分の部屋へと戻っていく。


「…………」


 そんな彼女を、俺は見送ることしかできなかった。


 こうして、俺は特別だと思っていた少女たちと疎遠になった。

 入学式の日に、今まで積み重ねていた全てを失ったのだ――

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