第二百八十六話 回想その13
結月の言葉にショックを受けて、黙り込んでしまった時だった。
「――――え?」
玄関の前で、扉を開けることすらせずに顔だけを出して俺の対応をしていた結月は、ふと我に返ったかのように目を大きく見開いた。
「なんで……わたくし、こんなことを言ってるんですか?」
慌てた様子で、彼女は靴を履いて玄関から出てくる。
扉を閉めて、改めてちゃんと俺と向き合った彼女は、戸惑うように瞳を揺らしていた。
「いや、違うんです……いえ、違わないわけではないんですけれど、こんな思いは――ずっと、言わないつもりだったのに」
自我を制御でてきないと、そう言わんばかりの様子で、結月は申し訳なさそうに唇を震わせていた。
「傷つけたいわけじゃ、なかったのに」
……冷静に考えてみると、結月は確かに他人を傷つけられるほどの『強さ』を持つ人間じゃない。
傷つけるより、傷つけられることを受け入れてしまうような、そういう『弱さ』が前に出てきてしまうような、優しくて臆病な少女だった。
それなのに、結月は俺に対して容赦なく言葉の刃を振り回していて……そのことに、彼女自身も困惑していたのである。
その態度が、なんだか異様だった。
まるで、誰かに操られているようにも見えてしまったのだ。
「こんなの、おかしいです」
そう呟いて、結月は一歩俺に近寄ってきた。不意に伸ばされた手は、まるで助けを求めているようにも見えて……反射的にその手を掴もうと俺も手を出したけど、しかし、その手を掴むことが正解か分からなくて、動きを止めてしまった。
その一瞬のためらいが、俺と結月の運命を決定することになることも知らずに……俺は、ミスを犯してしまったのだ。
「――でも、わたくしの本心に違いはありませんね」
俺が手を取らないことを理解してなのか。
あるいは、またしても何者かに人格を乗っ取られたのか。
定かではないけれど、この瞬間に結月の動揺は消えた。
そしてここから彼女は、元の優しくて臆病な少女には戻らなくなる。
「ずっと、幸太郎さんに不満を覚えていたのは事実ですから……伝えるつもりはなかったのですけれど、本当の気持ちなんですから、仕方ないんです」
手を引っ込めて、彼女は小さく笑う。
でも、この笑いはいつもとは違って、嘲笑の色が含まれていた。
「こんなに長く一緒にいるのに、幸太郎さんに特別な感情を抱いたことなんてありませんでした」
そして紡がれたのは、無慈悲な宣告だった。
「でも、彼は違ったんです……初めて会った時から、幸太郎さんとは全く違いました。話しかけられただけで、あんなにドキドキするなんて信じられませんっ」
キラリと同じく、彼女も熱に浮かされたように語り始める。
その話の主人公は、もちろん『竜崎龍馬』だ。
「つまり、恋に時間なんて関係ないということですね……そうです、わたくしは竜馬さんに恋をしてしまったのです! だから、竜馬さんではない男性に冷たくしてしまうのは、仕方ないことですよね。だって、わたくしは『恋』をしているのですからっ」
そうやって自分の行動を正当化して、竜崎が見てもいないのに忠誠を示すようなことを口にする結月は、どこか不気味だった。
まるで、男性の経験があることを許されないヒロインに自分も適格であると、何者かに見せつけるかのような言葉だったのだ。
こんなの、結月の言葉じゃない。
だけど、もう彼女は竜崎に選ばれてしまっていて……元の北条結月は消えてしまい、サブヒロインとしてのキャラクター性が付与されてしまっていたのである。
そうして、彼女は物語の奴隷になってしまったのだ。
「そういうわけなので、幸太郎さんとはもう二度と親密になることはないと思います。ご理解ください……それでは、わたくしは竜馬さんの胃袋を掴むために、明日はお弁当を作らないといけないので……幸太郎さんと話している時間がもったいないんです。だから、さようなら」
十年以上にも及ぶ付き合いが、ほんの一瞬で瓦解した。
そんな言葉を最後に、結月は俺に背を向けて扉を閉めてしまう。
「…………」
そんな彼女に、俺は何も言えなかった。
こうして、幼なじみの結月とも疎遠になってしまったのである――
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