第二百八十二話 回想その10


 ――恐らくはあの瞬間が、分水嶺だったと思う。


 屋上でキラリに失望されたあの瞬間、委縮するのではなく奮起していれば……キラリの期待に応えられるような動き、あるいは言葉を発してさえいれば、もっと違うルートだってあったのかもしれない。


 たとえば……梓、キラリ、結月と疎遠にならない学園生活を送れる可能性だって、なかったとは言い切れないだろう。


 だけど俺は、あの瞬間にモブキャラとしての宿命を捻じ曲げるほどの意志を持っていなかった。


 だからあの時は、物語の奴隷として『モブキャラ』らしく、空気みたいに何も言わずに、動くこともなく、場を静観していた。


 そのせいで結局、竜崎龍馬に生じたご都合主義を回避できなかったのである。


「えっと、同じクラスのキラリだっけ?」


「うん。浅倉キラリだよ……竜崎君、あたしのこと覚えててくれたの?」


「まぁな。キラキラネームのキラリって覚えやすかった」


「き、キラキラネームはあたしだって気にしてるんだからっ」


「ははっ、冗談だよ……かわいい女の子の名前は覚えるようにしてるんだ。だから、あんまり怒るなって」


「か、かわいいって……えへへ」


 歯が浮くようなセリフを平然と口にして、竜崎はキラリをたぶらかしている。

 そのせいか、キラリの目にはすっかりハートマークが浮かんでいた。


「まったく、運が良かったな……ちょっと人探しで屋上に来てみたら、まさか女の子が落ちてくるなんて、びっくした」


「あ、あたしも……すごく、びっくりした。あ、助けてくれてありがとね。おかげで、無傷だけど……そっちは怪我とかしてない?」


「俺か? 俺は大丈夫だよ。ちょっと右手が下敷きになったみたいで痛みはあるけど、折れてはなさそうだしな」


「え? ご、ごめんね? あたしのせいで怪我なんてさせて……」


「だから、気にするなって。これくらい少し時間が経てば治るから」


 階段の踊り場で、キラリは竜崎に抱かれたまま会話を交わしている。

 彼らには俺が見えていないようで、二人きりの世界を作っていた。


「おっと、こんな時間か……そろそろ帰らないと、夜道はあの子に危険だ」


 キラリはまだ色々と話したそうにしていたけど、ここで竜崎は会話を打ち切るように携帯電話を取り出して、時間を確認していた。


「もう帰るの? 助けてくれたお礼に何か奢らせてほしいんだけど」


「ははっ。ありがたい、じゃあ明日にでも頼むぜ……それでなんだが、屋上に白髪の女の子って来てたか?」


 それから竜崎が聞いてきたのは、とある少女についてだった。


「霜月しほっていう白髪の女の子なんだけど……ほら、俺たちと同じクラスにいただろ?」


 ……そういえば、この時が俺のシーンにしほが登場した初めての瞬間かもしれない。

 姿こそ登場しなかったけど、初めて彼女の名前を耳にした。


「白髪って、あのすっごく可愛い子のこと? ふーん、あの子って霜月しほさんって言うんだ……自己紹介の時、声が小さくて名前が全然聞こえてなかったから、初めて知ったかも」


「しほは他人に興味がない子だからなぁ。一人が好きというか、他人が嫌いというか……だから自己紹介とか、そういうイベントには消極的なんだよ」


「……竜崎君は、あの子と仲がいいの? なんか、親密そうだけど」


「まぁ、仲がいいというか……ただの幼なじみだよ」


「なんだ、ただの幼なじみなんだ。良かった、彼女だったらショックで……って、いいいい今のはなしっ。別に、竜崎君のこと意識してるわけじゃないからねっ」


「え? ああ、うん。意識してないのは、分かってるが……それで、しほは屋上にいなかったか? 学校中を探してもいなかったから、後は屋上くらいしか思い当たるところがないんだ」


「うーん、いなかったと思うけどなぁ」


「そうか。じゃあ、もう下校してるかもな……そろそろ日も暮れるのに、危なっかしいなぁ本当に。追いついてあげないと! じゃあ、俺はもう行くよ。また明日な、キラリ!」


 そうしてようやく、キラリと竜崎の出会いパートも終わる。

 足早に帰って行った竜崎を、キラリはずっと目で追いかけていた。


 梓と結月と同じように……彼女もまた、完全に心を奪われていたのだ――

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