第二百八十一話 回想その9
「――――」
思考の空白は一瞬のこと。
失望されたショックですぐに動くことはできなかったけど、数秒も経てば体は元通りに動くようになった。
「キラリ……っ」
それからようやく、その後を追いかけた。
荒々しい足取りで屋上から出ていくキラリに追いつこうと、歩みを早める。
彼女が階段に差し掛かっているところで手が届く距離に届いたけど、すぐにそれは拒絶された。
「ついてこないで」
彼女の冷たい声が響く。
その瞬間だった。
「……え? あたし、なんで今……こーくんを拒絶したの?」
ハッとしたように、彼女が俺の方を振り向いた。
まるで、今の発言は自分の意思ではなかったかのように。
それから彼女は、急に冷静さを取り戻したかのように、困惑の表情を浮かべていた。
「ねぇ、こーくん……あたし、なんでこんなに怒ってるの?」
「それは、俺が不甲斐ないからで……」
「違う。そんなこと、ずっと前から知ってて、そんなこーくんでも受け入れてたのに……なんで今、こんなにもイヤな気持ちになってるの?」
何かがおかしいと、そう告げていた。
でもその正体が分からずに、キラリは困惑していた。
「なんか、変じゃない?」
「変って……」
何が?
そう続けようとして、しかしそれを言う前に、キラリの体が揺れた。
「――ぁ」
何の脈絡も前兆もなく。
彼女の体が、バランスを失って……階段から落ちた。
強引に理由付けするなら、動揺で足を踏み外した――ということになるのかもしれない。
でも、俺の目にはそう映らなかった。
まるで、何か見えない糸で引っ張られているかのような。
そんな不自然な動きで、キラリは階段から転んだのだ。
「キラリ!?」
手を伸ばす。俺と彼女は近い距離にいたわけで、俺と彼女が手を伸ばせばどうにか届いたと思う。
助けようとした。
だけど、キラリは……手を出さなかった。
「…………ぇ?」
いや、出せなかったのだろうか。
キラリは俺を見ていた。俺の手を掴もうとしていたようにも見えた。
でも、透明な壁にぶつかったかのように、彼女の手は俺に届かなかったのだ。
このままだとキラリが大怪我をする――そう感じて背中が冷たくなる。
その時だった。
「ちょっ、おい!」
あまりにも、唐突に。
不自然なまでに都合の良いタイミングで、竜崎が階段の踊り場に出てきた。
まるで、タイミングを計らっていたかのように。
「危ない!」
竜崎が、キラリの落下点に飛び出てくる。
そのまま彼はキラリの体を受け止めて、一緒に床に倒れ込んだ。
でも、そのおかげでキラリは……頭や背中を強く打つことがなかったのである。
「痛ぇな……お、おい、大丈夫か? 怪我はないか?」
「…………う、うん。ありがとう」
竜崎が緩衝材になってくれたおかげで大事は免れた。
キラリも突然の事態に放心していたけど、無事で済んだらしい。
でも、いつもと違う箇所が一つだけあった。
それは、真っ赤になっている彼女の顔である。
「なぁ、本当に大丈夫か!? 顔、真っ赤だぞ……強くぶつけたんじゃないか? 保健室に行きたいなら、このまま俺が連れて行ってやるぞ?」
「は? そ、そんなの恥ずかしいから……この年齢で抱っこされたままとか、絶対にイヤ」
「そんなこと言ってる場合かよ! こんなに顔が赤いとか、有り得ないぞ!?」
「違うっ。ぶつけてなんかない……ってか、あんまり顔を近づけないでっ。ど、ドキドキしすぎて、もっと赤くなりそうだから」
「え? 今、なんか言った? 声が小さくてよく聞き取れなかったんだが」
「……な、なんでもない!」
――そんな、ラブコメのテンプレのようなお約束の会話を交わすキラリを、俺はぼんやりと見つめることしかできなかった。
あまりにも不自然な転落。
あまりにも不自然な竜崎の登場と救出。
あまりにも不自然な都合の良さ。
まるで、全てが元から仕組まれていたかのように。
竜崎龍馬にとって都合のいい展開が、目の前で繰り広げられた。
その結果、キラリもまたその心を奪われてしまっていた。
「う、うぅ……なんなの、これっ。こんなことって、あるわけ? 命の危険を男の子に助けてもらうとか……まるで、ラブコメのヒロインじゃん」
「お、おい、さっきから小声でなんか言ってるけど、もうちょっと大きな声で言ってくれよ。俺、耳があんまり良くないから、何も聞こえないんだが?」
「別に、なんでもない。ただ、うん……助けてくれてありがとうって、言ったの」
今にもラブコメが始まりそうなワンシーンに、俺は呆気に取られてしまった。
キラリが、俺に見せたことの無いような顔を、竜崎に向けている。
そして、彼女はもう……俺のことなんて、見向きもしていなかった――
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