第二百七十九話 回想その7


 なんとか俺たちは、入学式が行われる体育館に辿り着いた。

 その頃には梓の心がすっかり竜崎に奪われているとも知らずに、まだ俺は呑気に何も考えていなかった。


「ふぅ……遅刻しなくて良かったぜ。それじゃあ、梓と……えっと、そっちの男子も、また後でな!」


 竜崎の席は俺と少し離れていたので、あいつとはそこで別れた。

 俺は名前も憶えられていなかったけど、それは慣れているので、然程気にしてはなかったと思う。


「うん! また後でね? 竜馬おにーちゃんっ」


 俺のことよりも、やけに嬉しそうな梓が引っかかってはいたけれど……それに関しても深く考えることはできずに、俺は流れに流されていた。


 それから、入学式を終わった後のこと。

 新たに在籍する自分の教室に向かって、そこで俺は結月と顔を合わせた。


「あ、幸太郎さん……っ! 良かった、顔見知りがいなくて、心細かったんです」


「あれ? 梓とキラリは?」


「お二人ともお手洗いに行ったので……」


「そっか」


 まだ担任の先生は来てなかったので、俺たちは軽く雑談を交わしていた。


「皆さんと一緒のクラスで本当に良かったです。幸太郎さん、高校もよろしくお願いしますね?」


 大人しい性格のせいか、少し臆病な一面のある結月だけど、俺に対しては心を開いていた気がする。

 幼なじみという関係性のおかげで、彼女ともうまくやれていたのだ。


 でも、やっぱり俺たちはただの『幼なじみ』でしかなかったのだろう。

 しほと竜崎のように、俺と結月もまた薄っぺらい関係性だったのかもしれない。


 だから、ほんの些細なきっかけで、俺達の繋がりは途切れてしまったのだ。

 この時だった。結月と俺が疎遠になるきっかけは、この時に生じたのである。


「おっと、ごめん……って、ぁ!」


 二人で雑談を交わしている時だった。

 偶然、席の近くを竜崎が通りがかった際に、あいつが結月にぶつかったのだ。


「きゃっ」


 その際、不可抗力ではあるけれど、竜崎の手が結月に触れた。

 しかもその手は、彼女の胸元あたりに触れていたのだ。


 今だったら分かる。

 あれはいわゆる『ラッキースケベ』だったのだろう。

 そのイベントが、竜崎と結月の間で発生したのだ。


「っ!? ご、ごごごごめん!!!」


 もちろん、竜崎だって意図してやったわけじゃない。

 しかし、罪悪感があったのか、今度は先程の比じゃない勢いで謝っていた。


「さ、触るつもりじゃなかったんだ! 本当なんだ、信じてくれてっ。頼む、訴えないでほしい……今の時代だと裁判で負けちまうっ! 俺にはまだ守らないといけない幼なじみがいるんだ、どうか頼む、許してくれ!!」


「え? は、はい……存じてます。そんなに謝らなくてもいいですよ?」


 結月は物分かりが悪い人間じゃない。

 竜崎にやましい感情がないことだってもちろん分かっていたらしく、逆にあいつの動揺っぷりに驚いていたくらいだった。


「気にしないでください」


 柔らかく微笑みかける結月を見て、穏やかな人だなぁ……と、他人ごとに考えていたのを、よく覚えている。

 俺にちゃんと自我があったなら、もっと別の感情を抱いていたとしても、おかしくないような場面なのに。


 幼なじみの女の子が他の男に触れられたのだ。彼女に特別な思い入れがあったとするならば、多少なりとも心が動いてもいいはずだけど、俺は何も思わなかった。


 だからこそ、結月の感情の変化にだって、気付けなかったのだろう。


「あ、ありがとう……あんた、とっても性格いいな!」


「そ、そんな……わたくしは、褒められるような人間ではないです」


「いやいや! すごくいい子だと思うぜ? もっと自信持っていいと思う。あんた、モテるだろ? 男子に絶対好かれるタイプだ」


「あ、えっと……いや、あの……あ、ありがとう、ございます……っ」


 竜崎お得意の褒め攻撃は、自己肯定感の低い結月の心に刺さったのだろう。

 彼女は、梓と同じように一瞬で心を奪われていた。


「すごく、嬉しいです」


 遠慮がちではあるけれど、彼女は笑っていた。

 しほ程ではないけれど、結月もあまり感情表現が得意なタイプではない。お淑やかな反面、自分を押し殺す一面も持つような少女なのだ。

 だというのに、初対面であるにも関わらず、彼女は竜崎に心を開いていたのだ。


「クラスメイトとして、これからよろしくな!」


 そんな結月に対して、竜崎はいつも通り快活だった。

 爽やかに笑って、あいつは自分の席に向かっていく。その後ろ姿を、結月はずっと眺めていた。


「あの方……お名前、なんていうのでしょうか」


「ん? 竜崎龍馬だよ。さっき、そう言ってたけど」


「ありがとうございます……龍馬さん、ですか」


 あいつの名前を伝えると、結月はその名をもう一度復唱する。

 その時にはもう、俺への呼びかけとは違って、その言葉には何か熱い感情が宿っていた気がした。


 そう、結月もまた……竜崎を、好きになっていたのである――

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