第二百六十一話 聞き分けのいい妹なんて要らない


 その背中を押すことに対して、大きな葛藤があったことは否定できない。


 だって、一歩間違えれば崖の下に転落するような道を歩ませることと同義なのだ。


 足を踏み外さずに進むことができれば、その先には大いなる幸福が待っているだろう。

 だけど、崖に転落したら、不幸という結果に苦しむことになるかもしれない。


 それなら、危険な道なんて進まずに、安全でそこそこの幸せが待っている道だっていいと思う。


 確かに、理想の幸福はないかもしれないけれど、不幸になる可能性が限りなく低いのだ。


 兄として、この安全な道を選択してほしいと願うのは、当たり前だと思う。


 だけど梓が選択したがっていたのは、リスクの高い道だった。


「おにーちゃん……梓、頑張ってもいいの?」


 ほら。頑張れという言葉に対して、梓は否定しない。

 彼女の中で答えは最初から決まっていたのだ。


 しかし迷いが生じていたのは、たぶん……俺のことを思ってのことなのだろう。


「また、いっぱい泣くかもしれないよ? 今度は立ち直れないくらい傷ついちゃうかもしれないし……おにーちゃんをたくさん心配させちゃうかもしれないよ?」


「そんなの、分かってる」


 言われなくたって、俺はずっと心配している。

 君の理想の『兄』になることはできなかったけれど、今は俺だけが梓にとっての『おにーちゃん』なのだ。


「本当は、ダメって言いたい。もうこれ以上、梓の泣く姿なんて見たくない。普通の女の子らしく、普通の人生を歩んでほしい……竜崎のせいで苦しむ梓なんて、見ていられない」


「……じゃあ、やらない。おにーちゃんが苦しむなら、梓は普通でいいもん」


 ああ、そうだよな。

 今の梓なら、そう言ってくれるよな。

 以前までの、竜崎しか見えていない、盲目だった梓はもういない。


 この子は一度の失恋を経て、大きく成長したのだ。


「おにーちゃんが梓を大切に思ってくれていること、ちゃんと知ってるよ。いっぱい酷いこと言ったのに、許してくれて本当に感謝してるの。辛かった時、いつもそばにいてくれたから、梓はまた元気になれたの」


 自分が傷つくことで、傷つく他人がいる。

 そのことを理解してくれた梓は、もう無責任な行動はしないだろう。


「これ以上、心配させたくない……迷惑をかけるのも、もう終わり。梓は、このまま普通の女の子でいるね?」


 でもな、梓……そういうことじゃないんだよ。


「――違う。心配かけてもいいんだ。迷惑だってたくさんかけてくれ。だって俺は梓の『おにーちゃん』で……家族なんだから」


 家族に気を遣う必要なんてない。

 いつも俺に対して無遠慮で、少しナマイキで、調子に乗っているけれど、そういうところも愛している。


 家族として、俺は梓を大切に思ってる。

 だから、いくら迷惑をかけられても、心配させるような行為をされても、構わないんだ。


 聞き分けのいい妹なんて、妹じゃない。

 おにーちゃんが好きで、おにーちゃんにご奉仕して、おにーちゃんを気持ち良くする……そんな、兄にとって都合がいいだけの妹なんて、ラブコメの世界の妹だけで十分だ。


 俺が求めているのは、梓の『幸福』である。

 だから、




「そんなことよりも『後悔』だけはしないでくれ」




 梓の人生は、梓だけのものだ。

 どうか、わがままに生きてほしい。物語とか、役割とか、そういうものに縛られずに、自分のことだけを考えてくれ。


 ご都合主義の果てに抱いた歪んだ愛なら、認めないけれど。

 今の梓の気持ちは……きっと、彼女自身が選び、抱いた『本物』である。


「竜崎のこと、今でも好きか?」


「……ごめんなさい。今でもね、とっても大好きなの」


「じゃあ、それでいいよ」


 だったらその感情を、大切にしてほしい。

 俺なんかに気を遣わないで、赴くままに生きてくれ。


「好きなら、頑張れ……前も言っただろ? 俺はいつも、君を見守ってるよ」


 兄として、ずっとそばにいる。


「たとえ、後で不幸になったとしても、俺がなんとかするから」


 もし望まない結果になったとしても、不幸にはさせない。

 その時はまた俺が頑張ればいいだけの話である。


「梓……応援してるよ」


 そう告げて、梓の頭に手を触れる。


 前はよくこうやって撫でてあげていた。

 高校生になって、あまり触れることはなかったけれど……ふと、久しぶりに触れたくなってしまったのである。


「――おにーちゃんっ」


 撫でられた瞬間、梓は丸い目に大粒の涙を浮かべた。

 でもその涙は冷たいものではなくて……暖かくて、優しかった。


「……ありがとう」


 そう言って、梓は俺の方に身を寄せてくる。

 小さな体をしっかりと受け止めて、もう一度手を動かしてみる。


 久しぶりに触れた髪の毛は、数年前と同じで心地よかった――



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