第二百六十話 普通の幸せで満足できるなら、こんな物語(ラブコメ)は歩まない


『竜崎龍馬のことは忘れた方がいいよ』


 そう言ってあげたら、梓の未来が変わる気がする。


 彼女は俺のことを慕っている。

 一時期は疎遠になったけれど、最近やっと俺と梓は兄妹として普通に接することができるようになった、


 だから彼女には、俺の言葉が届くだろう。


(もし、梓が竜崎を諦めてくれたなら――)


 想像したのは、仮定の先にある梓の『未来』について。

 俺の一言で梓が竜崎のことを忘れたとしよう。


 それは即ち、彼女がサブヒロインではなくなることを意味する。

 つまり梓は竜崎龍馬という主人公の物語から消えて、普通の人生を歩むことになるのだ。


(きっと、大学生になる頃には普通の男の子と付き合うようになるだろうなぁ)


 梓はとてもかわいい。

 兄妹ということを抜きにして、客観的に見ても梓は愛らしいのだ。


 見た目はもちろん、中身だってこの子は魅力的である。

 人懐っこくて、寂しがりやで、心を許した相手には調子に乗るクセがあるけれど、そういうところに心が惹かれてしまうような少女である。


(梓がモテないわけがないよ。竜崎さえ忘れてしまえば、きっと色々な男から言い寄られるはずだ)


 たぶん、竜崎よりもずっと素敵な男性とだって出会えるはずだ。

 梓のことを一番に考えてくれるような、カッコいい男性と付き合うことだろう。


 大学を卒業して、普通の会社で働いて、普通の人生を歩んでいる中で、何度かの恋愛を重ねて、相性のいい男性を見つけることができたら、きっと『結婚』することもできるだろう。


 結婚して、子供を産み、幸せな家庭を作り、子供を育てて、年を重ねていく――そんな幸せが、この先の未来には待っている。


(なんて素敵な人生なんだろう)


 心の底からそう思う。

 人によっては『当たり前』の幸せだと思うかもしれない。

 特別性なんてない幸福に憧れるなんておかしいと思う人だっているかもしれない。


 だけど、普通でいることは、案外難しい。

 普通で満足してもいいと俺は思うのだ。


 普通にすらなれないモブキャラだったから、余計にそう思うのだろう。

 だから、梓には普通の人生を歩み、普通の幸福を手に入れてもらいたい。


 心から、そう思っている。


 なのに、どうして――俺は、迷っているのだろう?


『竜崎龍馬のことは忘れた方がいいよ』


 別に長くはないセリフだ。

 一息で言い切れる言葉である。

 時間にすると一秒にも満たないだろう。


「っ…………」


 しかし俺は、そのセリフを言えずにいる。


「……おにーちゃん?」


 言い淀む俺を、梓は不安そうに見ていた。

 彼女は俺を待っている。迷い、怯え、怖がっている梓は、どの道を歩むべきか、俺に指針を委ねている。


 言わずに逃げてしまうのは、兄としての矜持が許さなかった。

 自分で考えろ、なんて無責任な言葉は吐きたくない。


 だって俺はこの子の『兄』である。

 苦しむ妹を見捨てたくなんかない。


 だから俺は、ハッキリと告げた。


「竜崎龍馬のことは忘れた方がいいよ……俺は、そう思う。その方が梓は幸せになれる」


 迷いはまだある。

 だけど、これが最良の道であると分かっているから選んだ。


 その言葉に対して、梓は――




「…………やっぱり、そうだよね」




 ――頷いた。

 諦めたように、呆れたように、それでいてどこか安堵するように……彼女は頬を緩めて、小さく頷いたのだ。


 その瞬間だった。


(違う)


 直感が、叫んだ。

 このままでいることを、梓が望んでいないことを察したのである。


 だって、梓の目がそう言っていた。


(梓が求めている言葉は、これじゃない)


 澄んだ奥には、まだ炎が灯っていたのである。

 まだ梓の炎は消えていなかった。


(この子が、俺にやってほしいことは……っ!)


 兄として、理解する。

 妹が何を望んでいるのかを把握する。


 その瞬間、反射的に口が動いた。


「――でも、梓……一番の幸せは、一番好きな人と一緒にいることだよな」


 俺の示した道は『最良』ではある。

 だがそれは『最善』ではない。


「普通の幸せよりも、一番の幸せが、梓はほしいんだよな」


 だから、俺が言うべきセリフは、これだ。





「諦めるな」





 たとえその道が苦痛に満ちていたとしても。

 結果的に、普通の幸せすら手に入れられない人生を歩むことになったとしても。


「梓、頑張れっ」


 俺は彼女の背中を押すことしかできない

 兄として、妹の進む道を示したかったけれど……その道の先にある普通の幸せで、梓は満足してくれないのだ。


 だって彼女は、普通の女の子じゃない。

 主人公様に見初められるような、特別な少女(ヒロイン)なのだから――

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