第二百五十九話 手の届くキョリ


 これ以上結月と一緒にいても、彼女を傷つけるだけ。

 そう感じた俺は、すぐに家を出た。


「変な思いをさせてしまってごめんなさい」


 申し訳なさそうに謝る結月を見ていると、無性に悲しくなる。

 そういえば、結月が無邪気に笑っているところを久しく見ていない気がする。


 ……確か、母親の陽子さんが亡くなって以降、結月は笑い方が変わった。


 微笑んだり、喜んだりしているところはよく見ていたが、陽子さんが亡くなってから、子供らしく笑わなくなったのだ。


 甘えられる相手がいないから、子供でいることをやめたのかもしれない。

 結月の父親も、陽子さんが亡くなってからは娘と疎遠になっているようだ。


 そんな背景を踏まえると、結月が他人を甘やかす理由もなんとなく分かる。


 誰かに必要とされたい。

 自分の価値を認めてほしい。


 一人きりの結月は、そういう承認の欲求が強いのだ。

 だからこそ、彼女が竜崎と喧嘩したことが信じられない。


 何かよっぽどの理由があったことは分かる。


 だけど、それはモブキャラには関係のない『本筋』で語られているエピソードだ。

 俺が干渉できても、何か影響を与えられるとは思えない。


 だからこそ俺には結月が救えないと、諦めたのだ。


「じゃあ……帰るよ」


 頭を下げて謝る結月に背を向けて、彼女の家を出る。

 そのまま近所の自宅へ逃げるように帰った。


 変貌した幼馴染の顔が見ていられなかったのである。


「どうすればいいんだよ」


 家の扉を閉めて、思わず呻いてしまう。

 うずくまって頭を抱えたい気分だったけれど、しかし彼女がいることも思い出したので、悩むような暇などなかった。


「――梓っ」


 顔を上げると、リビングからこちらを見る梓と目が合った。

 慌てて靴を脱いで彼女に駆け寄り、その様子を確かめる。


「大丈夫か?」


 先程、メアリーさんのせいで梓は目が虚ろになっていた。

 何かを思い詰めたように考え事にふけっていたのである。


 しかし今は、思ったよりも表情が明るかった。


「……うん、大丈夫だよ」


 俺が心配していることを理解しているのだろう。

 彼女は強張る頬を緩めて、微笑んでくれた。


 メアリーさんにちょっかいを出された直後は動揺していたが、少し時間が立ったおかげで、冷静さを取り戻したらしい。


 ただ、まだ笑っていられるような気分ではないのだろう。その笑顔はぎこちない。でも、そうやって気丈に振る舞えるのは、心に少し余裕があるおかげだと思う。


(結月よりは、大丈夫だ)


 手遅れになりかけている幼馴染と比較すると、梓はまだまだ救いようがある。


 俺が何か手を施せば、梓だけは助けられるかもしれない。

 竜崎龍馬の魔の手から逃れることだって、きっと可能だ。


 だからこそ、ここからの言葉や行動には気を付ける必要があるだろう。


「ねぇ、おにーちゃん……好きな人が好きになってくれない時、その人を好きでいることは、間違いかな?」


 ほら。

 何の脈絡もなく、梓が俺に助言を求めてきた。


 俺に手の出しようがなければ、こんな質問もなかっただろう。

 梓は家族だ。他人ではない、身内だ。梓にとっての俺はモブキャラではなく、兄なのである。つまり、俺にもまだ手の出す余地があるのだ。


「おにーちゃん、教えて?」


 アズサは答えを待っている。

 俺の言葉を、求めている。


「好きな人が好きになってくれない時……その人を諦めても、幸せになれるかな?」


 そしてそれは、俺が最も答えやすい質問でもあった。


(好きな人が好きになってくれない時――か)


 奇しくもそれは、前の俺と同じ状況である。


 かつて俺は、梓とキラリと結月に対して特別な思いを抱いていた時期があった。好き……とまではいかないけれど、普通じゃなかったことは間違いない。


 でも、高校の入学式の日に、俺は彼女たちにとって特別ではなくなった。

 だから俺は諦めた。


 それでも今は幸せである。


 だとするなら、迷う必要などないだろう。


 梓には、普通の人生を送ってもらう。

 ハーレム要員のサブヒロインとして、ではない。


 普通の女の子として、普通に恋をして、普通の愛を知る。


 そうやって、普通の幸せを手に入れてほしかった――

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