第二百五十六話 決別した幼馴染の変貌した姿


 北条結月は、とても優しくておっとりとした少女である。


 幼い頃、彼女が怒っているところを俺は見たことがない。悲しんでいるところとか、寂しがっているところとか、そういう『負』の一面を結月はまったく見せないのだ。


 隣にいて、こんなに居心地がいい少女と俺は出会ったことがない。


 彼女の隣にいると思考が停止するような気さえしていた。


 悩みや苦しみ、我慢などの感情から解放されるというか……色々なことを『まぁいいや』と思えてしまうくらい、結月の隣いいると穏やかな気持ちになる。


 だってこの子は、なんでもやってくれる。

 優しいからなのかやけにお世話好きで、身の回りのことを色々やってくれるし、何か困っていることがあったら率先して協力してくれる。

 その上、結月の隣にいると『俺は愛されているなぁ』と実感できる。


 たぶんだけど……彼氏をダメにする彼女と形容できる人間が、北条結月なのだ。


 そんなんだから、かつての俺は結月がこちらに好意を持っていると勘違いしていて、このままの俺を愛してくれると思い違いをしていたわけである。


 まぁ、結局のところ結月はもともと『そういう人間だった』だけで、俺がとくべつだったわけじゃないことを、後になって思い知らされたわけだが。


 それはもう昔の話。


 今の結月は、竜崎龍馬という愛する人を見つけて、俺にやっていた以上に尽くしていたはずだが……どうやら、彼女の献身は実を結ぶことなく、報われなかったらしい。


「龍馬さん? ああ、ちょっと喧嘩しちゃいまして……なんだか、色んなことが急にバカバカしくなったんです」


 それとなく聞いてみると、思ったよりも簡単に竜崎とのことを教えてくれた。


「ごはんを作ることも、お掃除をすることも、お洗濯をすることも、あんなに好きだったことが全部どうでもよくなってしまいました」


「……だから、こんなことになってるんだな」


 およそ一年ぶりに入った結月の部屋は、見違えた姿に変貌している。

 もちろん、それは良い変化ではない。


 とある一角を除いて、散乱した洗濯物やゴミが床を覆っており、キッチンには使用済みの食器が捨てられたように放置されていた。少し悪臭も漂い始めていて、思わず顔をしかめてしまう。


 リビングと台所は酷い有様だ。

 でも、まだ結月が自暴自棄になった期間が短いおかげか、二階までは侵食されていないようだ。これくらいなら、一日掃除をしてあげたらすぐに綺麗になるだろう。


「結月、顔から血が出てるぞ。大丈夫か?」


 部屋のことよりも、まずは結月自身のことから解決しなければならない。

 腐れ始めたヒロインは、しかしまだ辛うじて原型を留めている。


 竜崎との仲違いも然程前の出来事ではないのだろう。

 だとしたら、まだ取り返しがつくはずだ。


 もう、関わりは薄いし、お互い別々の人生を歩んでいるけれど。

 やっぱり、幼馴染の女の子を見捨てるのは、胸が痛い。


 できる範囲で何かをしてあげないと、気が済まなかった。

 ……しほには、後でちゃんと謝らないといけないけれど。


 とにかく、俺にできる範囲でやれることをやろう。


「手当、した方がいいいよ」


「……わたくしの顔なんて誰も見ないですから、傷くらい放置していてもいいと思います」


「そんなこと言うなよ。血が結構出てるし……母親が心配するぞ?」


 卑怯だとは分かっている。

 でも、あえて母親という単語を使った。


 そうすると、結月はハッとしたように目を大きくして……そっと、自分の傷に手を触れる。


「……そうですね。お母様が、悲しんじゃいますね」


 そう言って彼女が視線を向けたのは、母親の仏壇だった。

 ゴミだらけのリビングで唯一、この一角だけは今も清潔を保っている。


 結月の母親は三年前に亡くなっている。

 しかし、大好きだった母親のことを思い出したおかげか、結月は少し我を取り戻してくれたらしい。


「こんなわたくしを見たら、きっと悲しませてしまいますよね」


 それからようやく、結月は顔の傷を手当てしてくれた。

 散乱していても、物がどこにあるのかは把握しているらしく、救急セットから消毒液やガーゼなどを取り出している。


 それを見て、少し安堵した。


(良かった……まだ、腐れきってはいない)


 結月は確かに腐れかけているけれど。

 しかしまだ、取り返しがつく距離にいてくれていた――

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