第二百五十五話 腐れかけた幼馴染


 ――まんまとやられてしまった。


『このままだと、病んじゃうんじゃないかな?』


 メアリーさんはそう言い残して、この場を去っていった。


 いきなり出てきて、散々場をかき回したかと思ったら、挙句の果てには最悪の置き土産を残して、自分はさっさと帰っていく。


 梓がようやく落ち着いてきた頃合いだというのに……メアリーさんのせいで、またしても不安定になりそうだ。


 本来であれば、一刻も早く彼女のそばにいてあげなければならないのだろう。そうしないと、かつてのように梓は苦しんでしまうかもしれない。


 でも、それをするには、目の前の彼女があまりにも可哀想だった。


「結月……」


 北条結月。

 綺麗な長い黒髪が良く似合っている、美少女『だった』。


 でも今は、美少女と形容するにはあまりにも状態が酷すぎる。

 こんな彼女と出会ってしまったのは、やはりメアリーさんの策略なのだろう。


 できれば、会いたくなんてなかった。

 もう俺にとっては赤の他人だ。


 幼馴染ではあるけれど、関係のない人間である。

 それなのに……放っておけないのは、やっぱり古くからの知り合いだからなのだろうか。


「わたくしは北条結月です。北条結月、今年で17歳になります」


 いきなり自己紹介を始める結月。

 先程から感じていたのことなのだが……少し、会話がかみ合っていない気がする。


「幸太郎さん、夕食は食べましたか?」


「え? ああ、うん……」


「そうですか。わたくし、そういえば蚊に刺されてしまって、かゆいです」


 ……話題も飛ぶし、俺の返答に対するリアクションも薄い。

 よくよく見ると目も虚ろで、髪の毛もボサボサで、肌の色も悪かった。体もそわそわと動いているし、無意識なのか先程から指の爪を噛んでいる。


 そういえば、幼い頃の結月には指をしゃぶるクセがあったことを、ふと思い出した。

 俺と彼女がまだ幼い頃の話だ……あれから成長して、そんなクセがあったことさえも忘れていたのに、どうして再発してしまったのだろう。


 こんなの、結月じゃない。

 俺の知っている北条結月はもっと清潔で、落ち着いていて……余裕のある少女だった。


 それなのに、彼女は激変していた。


「あら? そういえば先程、誰かいたような気がします」


「……気付いてなかったのか?」


「え? やっぱり、どなたがいたのですか?」


 メアリーさんのことも、彼女には見えていなかったらしい。

 それくらい追い詰められていて、視野が狭くなっているのだろう……今の結月には、見たいものしか見えなくなっている。


 そしてその対象には、俺がいる。

 メアリーさんは見えていなかったみたいだが……北条結月は、中山幸太郎をしっかりと視認しているのだ。


(なんで、俺が見えている……?)


 入学式の日、竜崎龍馬に恋した結月は、その日から俺の事が見えなくなったように関係性を断った。


 あれ以降、たびたびすれ違うこともあったが、やはり会話することは少なかった。

 でも、少し前から……結月は俺のことが見えるようになっている。


 竜崎が自分をモブキャラだと思い込んだくらいからだろうか。

 あの時も少し会話をした。


 そして今も、俺は結月と顔を見合わせている。


 間違いなく、何かがあったのだろう。

 俺を知覚するということは、即ち……過去を懐かしがっている、ということか?

 だったら、今がうまくいっていないとも考えることができる。


 そしてそれが意味することは――竜崎龍馬との間に、軋轢が生まれたということだろう。

 そこまでは、なんとなく分かった。


 でも、ここから先は、まったく分からない。


「幸太郎さん、なんだか顔色が良いですね」


「そうなのか?」


「はい。前はもう少し、透明だったというか……なんて言えばいいのでしょうか。無表情だったことは、よく覚えていますよ?」


「…………」


 なんて返すのが正解なのだろう?

 分からない。今の結月が、どんな言葉を求めているのか、読めない。


 他人の望む自分を演じることには自信があった。

 モブキャラみたいに個性がないから、何色にもなれることが俺の取柄で、だからこそ他者の感情に敏感だった。


 結月のことは幼い頃にずっと一緒だった。兄妹、あるいは姉弟も同然の関係だった。


 だから彼女のことはよく知っているはずなのに……今の結月は、あまりにも酷すぎる。


 どんな言葉をかけても意味がない気がした。

 何を言ったところで、結月は傷つくことしかできないと感じてしまうのだ。


「それでは、夜も遅いので……さようなら、幸太郎さん」


 スッと、結月が俺の横を通り抜けていく。

 だけど、足がもつれていたのか、不意に結月が体勢を崩した。


「危な――」


 慌てて手を伸ばしたが、俺の反応速度では間に合わず。


「あはっ……また、やってしまいました」


 結月は地面に転び、薄汚れたジャージにもう一つ汚れが追加される。

 顔を打ったのか、擦り切れた頬には血がにじんでいて……そんな姿を見てしまうと、胸が痛くなってしまった。


 やっぱり、ダメだ。

 幼馴染だけど、赤の他人だし、関係性だって薄い。


 でも、腐れかけた幼馴染は、あまりにも痛々しくて。


「結月……家、入っていいか?」


 やっぱり、彼女を放っておくことはできなかった――

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