第二百三十一話 被害者のサブヒロイン
「私はもう、中山を好きじゃなくなったみたいなの」
そう語る胡桃沢さんの表情は、とても穏やかだった。
「今までごめんね? ……なんて、謝られるのも迷惑かしら。でも、これは私の『けじめ』として、受け取ってほしいわ」
「…………」
その言葉に対して、俺は何を言えばいいのだろう?
ありがとうと感謝するのはおかしいし、残念だと惜しむのはもっと変である。
そもそも俺は胡桃沢さんの告白に困惑していたわけで、だとするなら、今の発言は俺にとって都合がいいはずだ。
だけど、少し引っかかる。
「やっと言えた……ようやく、伝えられた。中山のこと、あんなに好きだったはずなのに、私はもう好きじゃなくなったらしいのよ」
「……そうなんだ」
「うん、そうなのよ。私は……中山のこと、好きじゃなくなったみたいなのよ?」
何度も何度も同じ内容の言葉を繰り返す胡桃沢さんは――まるで、自分に言い聞かせているように、見えてしまう。
それからふと、引っかかっていた違和感の正体に気付いた。
(どうして……自分のことなのに、他人事なんだ?)
好きじゃなくなった『らしい』とか。
好きじゃなくなった『みたい』とか。
まるで、自分の意思でそうなったのではないと、主張するかのようですらある。
「別に、中山が魅力的じゃなかったわけではないのよ? むしろ、一緒に過ごしていくうちに、中山がとっても素敵な人間だって思っていたんだから……だけど、もう好きじゃなくなって、なんだか不思議な気分だわ」
「……大丈夫か?」
不意に、言葉が飛び出た。
返答としてはおかしいのは分かっている。
「胡桃沢さん、無理しなくていいよ。気を遣わなくてもいいんだ……だから、正直に答えてくれ」
だけど、心配せずにはいられなかった。
「本当に、大丈夫?」
様子が明らかに変だ。
吹っ切れたように笑っているけれど、どこかおかしい。
そう。これはまるで……空元気だった。
「大丈夫――なんて言えない自分が、とても情けないわ」
胡桃沢さんは、苦笑しながら肩をすくめる。
諦めたような表情で、重い息を吐きだした。
「はぁ……なんでかなぁ。あんなに、好きだと思っていたのに――こんなに簡単に、他の人を好きになるなんて、思わなかった」
「それは別に、おかしくないと思うけど……俺よりも凄い人間は世の中にたくさんいるんだから、当たり前じゃないか?」
「そんなことないっ。それに私は、簡単な気持ちで人を好きになったりしない――と、自分では思っていたから」
彼女は今、自分自身に失望しているように見えた。
まさしく、続きを楽しみに読んでいた物語が、急激に勢いを失った時のように、退屈そうな顔をしていた。
「私って、自分で思っていた以上に気持ちが軽かったのよ。中山のこと、本当に好きだったはずなのに、ふたを開けてみたらそんなことなかったみたいね」
嘘だ。
その言葉には、納得できなかった。
「そんなことない、とは俺には言いきれないけど……胡桃沢さんの本心は、俺には分からない。でも、少なくとも、俺と一緒に過ごしている時の君は本気に見えた。だから俺は、困っていたんだ」
何度もアプローチを仕掛けられて、そのたびに狼狽えていた。
もっと軽々しい気持ちだったら、あんなに悩むことなんてなかった。
少なくとも、俺には偽物には思えなかった。
だが、彼女は首を横に振った。
「中山は優しすぎるのよ。私のことを買いかぶりすぎだわ」
優しすぎる、なんて――俺には似合わない言葉である。
優しいんじゃない。俺は、意志が弱いだけだ。
買いかぶっているのは彼女の方だと思う。
だけど、それを主張することはできなかった。
「っ…………」
言葉が、出てこない。
胡桃沢さんの言葉を否定できるほどの主張が存在しないのだ。
結局俺は、いつものように流されるまま、胡桃沢さんの言葉を聞いていることしかできないのである。
そんな俺をおいて、彼女はなおも語る。
「ある日、運命的な出会いが起きました。そして私は今まで好きだった人よりも、その人を好きになりました――私のラブコメは、その程度のお話でしかないのよ。あまりにも軽くて、不安定で、みっともない……こんな自分に、思わず呆れちゃったわ」
それから再度、彼女は頭を下げた。
「だから、ごめんなさい。こんな軽々しい恋に巻き込んで、傷つけて、苦しめたことを、謝るわ」
深く深く、頭を下げる。
ピンク色の髪の毛が、風に流れて揺れている。
そんな彼女に、俺はなんて声をかければいいのか、分からなかった。
そうやって黙り込む俺に、胡桃沢さんは更に言葉を重ねていく。
「でも、これだけは言わせてほしい。私はね、軽々しくあなたを好きになったつもりはなかった。その時は、本当に中山のことが、好きだと思っていた」
だけど、その本気だったはずの感情は、精巧な『まがいもの』だったと、彼女は言っている。
「本当に、好きだったはずなのに……でも、もしかして、違ったのかなぁ? 私は、本当は中山のことが好きじゃなかったのに、好きだと思い込んでいただけ? それとも好きだったのは本当で、その感情がいつの間にか冷めていたとか?」
その真相は、彼女本人も分かっていない。
まるで――胡桃沢さんの意思に関係なく、『好き』という感情が植え付けられて、勝手に上書きされているように思えた。
(それって、やっぱり――)
そこで俺は、ようやく結論に至る。
(胡桃沢さんも、物語の都合に合わせられただけ?)
好きでもないのに、好きにさせられる。
物語を動かすために、無理矢理キャラクターの感情を書き換える。
そういう『ご都合主義』に巻き込まれただけだとしたら?
(そんなの……酷いだろっ)
それは、あまりにも残酷だった。
結局この子も、俺と同じだ。
自分の意思で物語を動かすことはできない。
ただただ、起承転結を彩るための舞台装置に過ぎない。
つまり胡桃沢くるりは『物語の奴隷』だった。
このラブコメにおいて、彼女は負けることが確定していた。
結局のところ、胡桃沢さんも巻き込まれただけだったのだ。
つまり彼女は『加害者』ではなく『被害者』だった。
そうだ……思い返してみると、転換点もあそこだった。
(竜崎と遭遇して以降、胡桃沢さんはおかしくなっていった)
俺が知らないところで物語が進んで、彼女は何かを書き換えられた。
竜崎龍馬の物語に、胡桃沢くるりは利用された。
そのせいで彼女はこんなにも傷ついてしまったのだろうか。
だとするなら……それが本当に、残酷だった――
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