第二百二十七話 金の価値と人の価値

「はぁ……」


 意を決して放った一言は、しかし母のため息によって熱を失った。


「幸太郎、お前の感情論に付き合うほど私は暇じゃない」


 取り乱すことなどない。

 俺の言葉なんて、母にとってはただの音に過ぎない。

 何を言おうと、訴えようと、願おうと、母は全て踏みにじるだろう。


 だってこの人は、俺のことを道具としか思っていないのだから、それも当然だ。


「お前が私の子であることを疑いそうだ」


 無機質な声に、喉が詰まりそうになる。

 その時になってようやく、自分が息を止めていたことに気付いた。


 それくらい、今の俺は冷静じゃないようだ。


「幸太郎、お前の感情に幾らの価値がある? お前が何を思おうが、どうでもいい。嫌だろうが、やれ。怒っているなら、感情を抑えろ」


「……なんでだよ。あんたに、そんなことを言う権利があるのか?」


 絞り出すように声を発する。

 精一杯の反撃だったが、それすらも母は容易く一蹴した。


「ある。私はお前の親だからだ」


「説明になってない」


「……お前でも分かるように説明してやろう。幸太郎、お前がここまで成長するのに、いったいどれほどの金がかかったと思う? お前を産まなければ、私はいったい幾ら稼げたと思う?」


 ほら、結局これだ。

 母の価値観は『金』にしかないのだ。

 相手が子供だろうと、関係はないのだろう。


「要するに、お前は私に借金があると考えてもいいだろう。だから、それを返済するだけの利益をあげろと言っているのだ。そこにお前の感情は関係ない」


 ……ダメだ。

 この人を分からせるだけの言葉が、俺には思いつかない。

 まるで宇宙人と話しているような気分になってしまう。


 根本的に価値観が合わないので、言葉は通じているのに、会話ができないのだ。


「今のお前にできることは、胡桃沢財閥とメアリー社のご令嬢に媚びを売ることだけだ。私が満足のいく利益を得たと判断したなら、その時は親子の縁を切ってやる。それまでは、自分の役割を果たせ……それが『大人』というものだ」


 身勝手な論理に、うんざりしてくる。

 こんな人間を大切にしようとしていた自分が、バカバカしくなった。


「だから、胡桃沢の娘とも仲良くやれ。家庭教師の契約は終わったが、そのまま良好な関係を継続しろ。妹の千里にもそのサポートを言いつけてある……うまくやれよ? 可能なら、その懐に入れ。結婚できれば儲けものだ。それでこそ、私が産んだ価値がある」


「…………」


 思わず、黙り込んでしまう。

 会話していたところで意味なんてない――と、思っていた、その時だった」


「ふむ、なるほどねぇ」


 隣で聞き耳を立てていたメアリーさんが、何やら頷いていた。

 それから、通話している反対側の方に歩み寄って来たかと思えば、小さな声でこんなことを耳打ちしてきた。


「コウタロウに、魔法の言葉を教えてあげよう」


「え?」


 いきなりの発言は、いわゆる『アドバイス』というものだった。


「『俺に関わるな。じゃないと、胡桃沢財閥とメアリー社に支援をやめさせる』と、そう言ってごらん? それで多分、会話は終わるよ」


 ……たったそれだけでか?

 こんな無機質で人間味のない母が、この程度の言葉で折れるのか?


 自分で言うのもなんだが、母は恐らく俺に利用価値を見出している。この先もきっと、ことあるごとに俺に介入してくるだろう。


「大丈夫、ワタシを信じていいよ。だってワタシにはできないことがないからねぇ……チートキャラの金言だ。そっくりそのまま、言えばいい」


 ただ、打つ手がないのも事実。

 このまま俺が何を言っても母が聞き入れてくれるわけなどない。


 物は試しだ……メアリーさんの助言に、乗ってみることにした。


「俺に関わるな。じゃないと、胡桃沢財閥とメアリー社に支援をやめさせる」


 そう言い放ち、反応を窺う。

 どうせ『やれるものならやってみろ』などと言われると思ったのだが。





「――それは困るな」





 呆気なく、母は降参した。


「…………はぁ?」


 思わず、困惑してしまう。

 あれだけ散々、俺に色々とと語っていたくせに、たった一言で全てが覆ったのだ。


「交渉に出たか。それをされると困るのはこっちだな……いいだろう。幸太郎、今後はお前には関わらないと約束する。その代わり、きちんと彼女たちとの交友は続けろ。では、切るぞ」


 そう言って、母は一方的に電話を終わらせた。

 あまりにもあっさりとした幕切れに、通話が切れても俺は呆然としたままだった。


「こんな、簡単に……自分の言葉を、撤回するのか?」


 頑なだと思ったのに、想像以上に軽い言葉だったようだ。


「HAHAHA! コウタロウは、まだまだ子供だねぇ」


 驚く俺を見て、メアリーさんはむかつく笑顔を浮かべている。


「ああいう人間にとって『感情』は価値が薄いんだ。だから感情を上回る価値、あるいはリスクを提示すれば、簡単に折れるんだよ……生粋の商人なんて、そんなもんだよ」


 明るく笑い飛ばしているが、しかしその笑顔はとても嘘くさかった。


「金で動く人間は、金で動かせばいい。だからこそああいう人間は信頼してはいけない。結局金で動くんだから、いつか裏切られちゃうからね」


 ……拍子抜けだった。

 いや、今の感情は、ちょっと違うかもしれない。


(あんな人間が、俺の母親なんだな……)


 俺はあの人に、失望していた。

 あんな人に義理を果たそうとしていた自分が、バカバカしくなっていたのだ――

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