第二百二十六話 子供ではなく道具

 三次限目の授業が始まって、半ばが過ぎたくらいだろうか。

 結局、サボってしまったけれど、今は授業どころじゃない。


 場所は校庭の隅っこ、ちょうど死角になっている場所だった。

 そこで俺は、メアリーさんと向き合っている。


「簡単な話だよ。『今後、俺を利用するな』と言えばいいだけなのに、どうしてそれができないのかな?」


 メアリーさんが、強引にスマートフォンを押し付けてくる。

 受け取ると、そこには既に電話帳の画面が開いていて、母の名前が表示されていた。


 タッチすれば、通話が開始する。

 あの母親と話をするなんて――考えただけで、背筋が寒くなる。


 血縁者なのに、息子なのに、自分が産んだくせに、他人行儀で機械的な声を発する母親が、苦手だ。


 あの人の声を聞いていると、どうしても過去を思い出す。

 何もできないと呆れられて、失望されて、見放された幼い頃の自分が、記憶の中で泣いていた。


 母に失望されてからは、俺も自分に期待することができなくなった。

 自らの価値に疑問を抱くようになり、やがて自分自身を『モブキャラ』だと思い込み、すべての物事に対してやる気を失ってしまった。


 せっかく、しほのおかげでマシな人間になれた。だからこそ、もうあの人の声を聞きたくない


 もう、過去の自分には戻りたくない。

 臆病な自分が、必死に首を振っている。


 電話なんてするなと、叫んでいる。


「シホの前でだけは、胸を張りたくないのかな?」


 だが、メアリーさんはやっぱりなんでもできた。

 臆病な俺の背中を押すことくらい、彼女にとっては容易いことなのだろう。


「にひひっ♪ そう言ってほしいのは分かっているよ。良かったね、今回のワタシが味方で……じゃないと、情けないモブキャラを励ますなんて、めんどくさいことはやらないよ」


 ……ああ、分かっていたさ。

 俺は今でもメアリーさんの掌で踊る駒である。


 つまり、俺には……そもそも、決定権がないのだ。


「覚悟を決める必要もないよ。コウタロウに行動の自由なんてない。物語のために、ちゃんと自分の役目を果たすことしかできないからね」


 ……今までも、ずっとそうだった。

 だったらこれからだって、変わらない。


 俺はここで、母親との因縁を断ち切る。


 物語のプロットでは、そういうことになっている。

 それなら、ためらう必要なんてないのだ。




「――――もしもし」




 電話が、繋がった。

 通話ボタンを押して、呼び出し音がワンコール鳴ったかと思ったら、即座に通話が繋がったのだ。


「幸太郎、よくやったわ」


 雑談なんてもちろん始まらない。

 数年ぶりの会話だというのに、第一声から無機質だった。


「あなたのおかげで、メアリー社から多額の支援を受けることができた。胡桃沢財閥からも助けたもらえたし、おかげで今後の目途も立った。今回に限っては、幸太郎のおかげね」


「…………」


 まだ俺は何も言っていない。

 しかし、通話している時間すら惜しいのか、母は勝手にしゃべり続ける。


「初めて、あなたを生んで良かったと思ったわ。勉強も運動もダメ、ルックスも凡庸、才能の欠片もない『はずれ』と思っていたけれど……まさか、こんなところに才能があったなんてね」


 才能?

 この人は、何を言っているんだ?


 才能がないとか、産んで良かったとか、はずれとか、酷いことも言われているが、それに傷ついていたのは昔の話である。今はそんなこと言われても何も思わない。


 ただ、初めて俺の『価値』が母親に評価されたので、その点が気になっていた。


 俺の何が、母のお眼鏡にかなったのだろうか。


「まさか、女に貢がせる才能があったなんて、驚きだわ。胡桃沢財閥とメアリー社のご令嬢があなたのために力を貸してくれるなんて……これは本当に、使える。我が社の大きなメリットになる。ありがとう、幸太郎」


「…………なんだよ、それ」


 ――その感謝の言葉で、スイッチが入った。

 今までは臆病な自分が怖がっていたが、今のセリフは到底許せないものだったのだ。


「女に、貢がせる?」


 そんな目的で、胡桃沢さんとメアリーさんと関わっているわけじゃない。

 そんな汚い動機で、人間関係を構築しない。


 俺はあんたと違う。

 それなのに……勘違い、するなよ。


「この縁は大切にしなさい。そしてあなたをきっかけに、我が社はもっと大きな飛躍を目指すわ。やっと、私の役に立てて偉いじゃない。幸太郎、あなたホストにでもなったら? きっとその方が、成功できるんじゃない?」


 下品な提案に、呆然としてしまう。

 自分の母親がこんな人間だとは、思いたくなかった。


 こんなの、ありえない。


 いや、違う。

 俺は現実から目を背けていただけだ。


 最初から、心のどこかでは分かっていたはずなのだ。


「俺は……あんたにとって、子供じゃないんだな」


 呟く。まともな言葉が発せたのは、ここまでだった。

 それから感情をかみ殺すように、唸ることしかできなくなる。


「あんたにとって、俺は『道具』だったんだな?」


 初めて、ではない。

 何度かそう認識してはいた。

 俺は母にとって道具でしかないのだろう……そう思ってはいたが、改めてその事実に、怒りが込み上げてきたのだ。


「ふざけるなよ」


 母にとって、役に立つか。

 それとも、役に立たないか。


 あの人にとって、それはとても大切なことなのだろう。


 だけど、よくよく考えると……俺にとっては、関係のない話だ。


「勝手に産んだのは、あんただ」


 これを言っては元も子もないのだが。


 でも、言わざるを得なかった。


「俺は別に、生まれたくて生まれたわけじゃない」


 だから、俺に価値なんて求めるな。

 あんたの身勝手な思想を、俺に押し付けるなよ――

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