第二百二十一話 好きでもないのに、好きだなんて言わないで
「けほっ、けほっ」
冬の寒空の下、人気のない校舎裏で、しほの乾いた咳の音が響く。
言いたいことを一気に吐き出したせいで、息が苦しくなっていたのだ。
体調不良から回復して数日が経っているが、まだ体調は万全とは言えない。何もなければ、もしかしたら彼女は今日も学校を休んでいたかもしれない。
だが、中山幸太郎のことが気になって、しほは登校した。
自分の体調なんて、幸太郎と比べたら些細な問題だったのだ。
(本物の愛って……そういうことなの?)
胡桃沢くるりは、顔色の悪いしほを見て、自分の在り方に疑問を持ってしまう。
「おままごと……」
そう言われて、しかし反論ができない自分に、彼女は狼狽えていた。
何も反論できなかった。だって、胡桃沢くるりは今、霜月しほの『本物』を目の当たりにしている。
「これ以上、幸太郎くんを傷つけるのはやめて」
「――っ」
大好きな人のために、一生懸命な彼女は……恋敵でありながら、綺麗だった。
(なんだか……バカみたいね)
まるで、頭から冷や水をかぶせられたような。
冷たい感覚が頭の先からつま先に流れ、一気に思考が落ち着いた。
さっきまでは動揺していたが、もう彼女は冷静である。
(よく見たら、震えてるじゃない……そんなに臆病なくせに、私に立ち向かってきたわけ?)
しほは威嚇するように胸を張って拳を握っているが、よくよく見てみると、手が微かに震えていたし、表情も強張っている。
まるで自分を大きく見せて威圧しようとする小動物だ。
気丈に振る舞っていたが、実はいっぱいいっぱいだった――それに気付いて、胡桃沢くるりは、彼女の愛の深さに気付いた。
同時に、自分の愛がいかに浅かったのかを、思い知らされてしまう。
だって、くるりにはそんな勇気がない。
霜月しほが真正面からぶつかってきたというのに、彼女はそれを受け止めることもできずに、おろおろしてばかりだった。
それこそが、二人の愛情の差だった。
衝突しても愛を貫こうとしたしほと、動揺して言い逃れようとしてばかりあった自分の愛には、大きな隔たりがある。
霜月しほを見ていると、それをイヤというほど自覚させられた。
「結局、あなたは……幸太郎くんよりも、竜崎くんを選んだのでしょう?」
もう、言い返す気力はない。
くるりは観念したように息を吐いて、少しだけ頬を緩める。
苦笑の笑みと同時に、彼女は初めて素直な気持ちを吐き出した。
「……そうかも、しれない」
「だったら――それでいいじゃない」
くるりは悪いことなんて何もしてない。
好きという気持ちが移ろっただけに過ぎないのだから、そこを責めるようなことをを、しほはしない。
ただ、その手段が許せなかっただけだ。
「あなたの気持ちを正直に伝えたらいいだけなのに、わざわざ幸太郎くんに告白する意味なんかないわ」
振られることでしか、恋に区切りがないのだと思い込んでいた。
でもそれは違うのだと、しほは訴えている。
「彼を巻き込むような方法なんて選ばないでっ……逃げずに、ちゃんと幸太郎くんに向き合ってほしいわ」
恋を終わらせるために振られる――なんていう短絡的な手段には走らないでほしい。
自分の弱さを認めて、素直に『別の人を好きになった』と、幸太郎に伝えてほしい。
結局のところ、しほはそれを言っていただけだった。
「好きでもないのに、好きだなんて言わないで」
その行為は、中山幸太郎に対する『侮辱』だ。
真剣に他人を好きになろうと努力する彼にとって、無礼だった。
「……それも、そうね」
そのことに、胡桃沢くるりは頷いた。
自分が楽な方向に逃げようとしていたことを認めて、諦めたように微笑んだ。
「もう、彼を傷つけない」
それが、彼女にできる唯一の『贖罪』なのだと、認識したのだ。
今まで散々傷つけてしまった。強引に家庭教師として契約して、彼が望んでいないというのに多くの時間を共に過ごし、挙句の果てには過剰なスキンシップを仕掛けた。
結果、中山幸太郎の心には爪痕が残り、罪悪感で苦しめてしまった。
だったら、もうこれ以上の罪を重ねる必要はない。
「ちゃんと、本当の言葉を伝える」
それでこそ『筋』が通る。
自分の弱さを認めて、惨めな気分を味わうだろうが……中途半端な恋の終わりには、相応しいとも言えるだろう。
「約束する」
頷くと、しほは……嬉しそうに、笑う。
「ありがとう」
愛する人を守れたことに喜ぶその笑顔は、
(とっても、素敵ね……)
目を細めてしまうくらいに、眩しかった――
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