第二百十四話 凡人の閾値
どうやら胡桃沢さんは、竜崎と何かしらの関係性を持っているようだ。
詳しいことは分からないけど、それは俺にとって一筋の光明となるかもしれない。
(ここを突けば……もしかして、胡桃沢さんを言いくるめることもできるんじゃないか?)
たとえば、こうだ。
『俺のことが好きだって言ってたけど、本当は違うんじゃないか? もしかして、竜崎の方が好きになってたりしないか?』
と、聞いてみるのが、手っ取り早いように感じる。
だって、今この場に竜崎がいることはあまりにも不自然だからだ。
(ラブコメの神様は何を考えてるんだ……?)
少し前までは俺ばっかりにちょっかいを出してきたくせに。
今はどうも、俺じゃない誰かにご執心のようにも見える。
だって、昨日から俺に何もイベントが起きていないのだ。
正確に言うと……しほと再会してから、と表現できるかもしれない。
とにかく今、胡桃沢さんの心模様が多少なりとも変化していることは、間違いないはずだ。
(竜崎に事故から助けてもらったのか……だったら、次はあいつのイベントに、胡桃沢さんが巻き込まれていてもおかしくないっ)
だったら、そこを責めてしまえばいい。
俺を好きじゃないと彼女に認めさせたら、今回の件は全て収束する。
しほに対する罪悪感や、母との因縁はまだあるが、胡桃沢さんの恋心と向き合わなくていいのだとすれば、気持ち的に楽になる。
(俺が好きなのは……やっぱり、しほだけだからっ)
胡桃沢さんには申し訳ないけれど、俺は彼女だけを好きでいたい。
もちろん、胡桃沢さんだって魅力的だと思う。今まで何度もアプローチを受けて、心が揺れなかったと言えば、嘘になるだろう。
だけど、俺はどうしても不器用で。
少しでもしほに申し訳ない感情があったら、本心から愛するという行為ができなくなってしまう。
だから、
「胡桃沢さん、竜崎と何かあったの?」
率直に、問いかける。
恐らく、今の胡桃沢さんにとって、最も言及されたくないことだろう。
「――っ」
その証拠に、彼女は顔を真っ青にした。
玄関口で、俺は靴を脱ぐこともしないまま、胡桃沢さんと向き合って言葉を交わす。
「教えてくれ。『何を』してたんだ?」
まるで、彼氏が彼女の浮気を問いただしているように。
そんな雰囲気の中で問いかけると、途端に胡桃沢さんは狼狽えた。
「な、何もないわ……竜崎とは、何もないっ」
嘘をついていることは明らかで、目がずっと泳ぎっぱなしだ。
この隙を逃さずに、更に俺は彼女を責めたてる。
「何もないんだったら、なんでそんなに動揺してるんだ?」
「し、知らないっ」
「……別に、何かあってもいいのに、どうしてそんなに隠そうとするのか分からないな」
それから、今度はもっと切り込むことにする。
彼女の心を鋭角に抉って、俺と彼女のラブコメを終わらせるために、切り口を作ろうとした。
「俺と胡桃沢さんは付き合っているわけじゃないんだから、他の男子と何をやっていても問題ないのに」
でも……その一言は、一番の悪手だったのかもしれない。
「――やめて」
唐突に、彼女は首を横に振った。
「そんなこと、言わないで」
その目には、大粒の涙がたまっていて。
「私だって、分からないの」
彼女の心は今、かなり不安定だということを、俺に教えてくれる。
「どうしていきなり、こんな感情になっているのか……分かんないのっ」
今の状況に、誰よりも混乱しているのは、胡桃沢さんなのだろう。
「私は、中山が好きなはずだったのに」
だけど、
「なんで? 私は、そんなに軽い人間じゃないっ……どうして私は、こうなっちゃってるの? 分かんないよ……こんなの、おかしいわ」
今の彼女は、たぶん心を誰かに乗っ取られているような気持ちになっているのだろう。
たぶん、竜崎に好意を持ってしまっている。
(流石は主人公様だな……何があったのかは分からないけど、あっさりと胡桃沢さんを攻略してる)
そこを突けば、彼女はもう言い訳できないだろう。
今の発言も、俺への気持ちが薄れていることを自供したも同然だ。
だったら、責めてしまえばいい。
俺のことが好きじゃないことを認めさせてしまえばいい。
それができたら、今回の物語は終わりだ。
胡桃沢さんというヒロインが呆気なく脱落して、幕を閉じる。
それは分かっている。
分かっている、けど――
「…………っ」
――俺には、それができなかった。
だって、今の胡桃沢さんは……あの子たちと同じ顔をしているから。
(梓……キラリ……メアリーさん……みんなと、同じだ)
かつて、竜崎龍馬という主人公に心を奪われた少女たちと、今の胡桃沢さんは同じ顔をしている。
思いが報われず、踏みにじられて、それでも好きでいてしまう自分に、苦しんでいる。
だから俺は、何も言えなかった。
(こんなの、無理だろ……!)
俺にはできない。
ただでさえ傷ついている少女を、更に苦しめることなんて無理だ。
でも、あいつならそれができるのだろうか。
(竜崎なら……本当の『主人公様』なら、ここでまた別の答えを出せるんだろうな……)
結局、俺は苦しめることしかできないから、口を閉ざすことを選んだけれど。
竜崎なら、別の答えを出すことができたのかもしれない。
たとえば……そんな胡桃沢さんをも、愛する――みたいな。
竜崎なら、それができてもおかしくないだろう。
つまり、この境界線こそが、俺とあいつを隔てる『閾値』なのだ。
(凡人と主人公は、やっぱり違うんだなぁ)
俺がいくら背伸びをしても、本物の主人公を越えることはできない。
だから俺に物語を動かす力はないのだ。
つまり、今回のラブコメは……もう俺の手の離れたところでしか、進展することはないだろう。
(週明けには、何かが変わるんだろうなぁ)
それを俺は、傍観者として見守ることしかできないようだ――
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