第二百十二話 『かわいい』だけのヒロインではなく
帰宅すると、既に日が暮れていた。
(メアリーとの話が思ったより長引いたな……)
彼女とは久しぶりだった。まさか日本に来ていたとは知らなかったが……とにかく、話ができて良かった。
おかげで充実した時間が過ごせたように思える。
もちろん、当初の目的通り、中山が直面している問題も彼女の力を借りて解決してやった。
その結果が出てくるのは、週明けくらいだろうか。
その時が来ることを楽しみにしておくことにしよう。
「ふぅ……」
息をついて、電灯のスイッチを入れる。
すると、台所のテーブルに、美味しそうな夕食と置手紙があることに気付いた。
「結月か?」
そこには『夕食を作ったので、食べてください』とだけ書かれていて、彼女の姿はなかった。
(メッセージは……ないな。結月、どうしたんだ?)
書置きとは、珍しいな。スマホに連絡すればいいのに。
(待っていてくれていると思ったんだけどなぁ)
ここのところ、同棲しているみたいにずっと一緒にいたのだ。当然、家で待っていてくれていると思っていたのである。
そんな結月の行動に違和感を覚えたが、しかしよくよく考えてもおかしな点はない。
今日は何か用事でもあったのだろう。そう思うことにして、まずは着替えでもしようかなと、二階にある自分の部屋へと向かう。
その時だった。
――コン、コン、コン。
不意に、ノックのような音が響く。
しかし、その音の発生源は扉の方ではない。
「……まさかっ」
ノックは、窓の外から聞こえたような気がした。
慌てて駆け寄り、カーテンを勢いよく開ける。
そして見えたのは、向かいの窓から身を乗り出している、霜月の姿だった。
「ちょっ、あぶねぇよ!」
急いで窓を開けて、叫ぶように注意を促す。
「手、短いんだから無理するな! 落ちるぞ!?」
「……こんな隙間から落ちるわけないじゃない。30センチくらいしかないのに、心配性かしら」
恐らく『手が短い』という発言が心外だったのだろう。
霜月は少し不機嫌そうに唇を尖らせていた。
そういう仕草もいちいちかわいいから、うんざりしてくる。
思いを断ち切りたいのに、こういうところを見せられたら、ドキドキするからやめてほしかった。
「いきなりどうしたんだよ……俺と話なんてしたくないんだろ?」
「もちろん。でも、今日の報告が聞きたいから、仕方なくこんな方法を利用したわ」
淡々と目的を説明されて、俺も冷静さを取り戻す。
俺と違って、霜月は本当に淡泊だ。ドキドキしているのは俺だけなのかと考えたら、興奮もやっと落ち着いてくれた。
どんなに好きになっても、思いが実ることはないのだ。だったら無意味な行動はやめよう。
期待しなければ、心も落ち着く。おかげですぐに心臓の鼓動も収まったので、求められた通り、俺は今日の報告を行うことにした。
「まぁ、万事順調だな。全部、お前の思惑通りにいってると思うが」
「『お前』はやめて。馴れ馴れしいわ」
「難しいこと言うなよ……」
呼び捨てをやめただけでは足りなかったらしい。
まぁ、いいんだけどさ……霜月はやっぱり、ちょっとめんどくさい女なのかもしれない。
いや、ちょっとどころではないな。
好きな男にこんなに執着しているのだから、かなり重いしめんどくさいだろう。
そう考えると、多少は中山が気の毒に感じた。
この愛を受け止められるのは、相当な度量が必要だろう。
まぁ……仮にその愛が俺に向けられていたら、受け止める自信もあったが。
そんなことはありえないので、話を戻そうか。
「とりあえず、やれることはやった。くるりとはいい関係になれたと思うしな」
「……くるり?」
「胡桃沢くるりだよ。お前の恋敵だ」
「ああ、そう……もう呼び捨てにできる関係になったのね。相変わらず、攻略するのが早いわ」
たった少しの俺の説明で、霜月は全てを察したらしい。
感心するような、それでいて呆れたような、そんなため息をついた。
「はぁ……結局、あの子もその他大勢の『女の子』だったなんて」
それでいて、どこか失望するような。
そんな目で、彼女はどこか遠くを見つめた。
「なんだか、残念だわ」
いったい、霜月はくるりに何を期待していたのか。
それは分からないが……俺に分かることは、とにかく霜月が『恐ろしい』ということだけだった。
(中山の前ではあんなにかわいいくせに、こんな二面性があるなんてな)
霜月しほという人間の『奥行』が見えてくるたびに、新たな部分に恐怖を覚えてしまう。
彼女はやっぱり、特別だ。
かわいいだけのヒロインではなかったのだから――
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