第二百六話 女たらし
「とりあえず、大丈夫そうだな」
交通事故から助けてもらった後。
竜崎龍馬は、安堵の息をつきながら抱擁を解いた。
さっきまでは胡桃沢くるりを支えるために、ずっと抱きしめていたのである。
(私、抱きしめられていたんだ……)
彼の温もりが消えてから、その事実にようやく気付く。
今まで触れ合っていたことを意識していなかった。そのことに彼女はびっくりしていた。
胡桃沢くるりは、どちらかというと警戒心の強い人間だ。
特に異性を相手にするときは、あまり距離が近くならないように意識している。
ピンク色の髪の毛こそ奇抜だが、彼女の顔立ちはとても整っている。故に、無駄な男女トラブルを起こさないよう、スキンシップは控えているが……しかし、竜崎龍馬は容易くその警戒を潜り抜けた。
咄嗟の出来事だったとはいえ、この一瞬でかなり距離感が近くなっているのだ。胡桃沢くるりはそんな彼を前に、なおも呆然とすることしかできない。
(この人……こんな人間だっけ?)
学校で見かけた竜崎龍馬と今の彼はまるで別人だった。
廊下をトボトボ歩いていた覇気のない彼はもういない。
今、彼女の目の前にいるのは、精気に溢れた好青年だった。
「ちっ……あの車、逃げやがったか。人をひきかけたくせに、マナーが悪いな」
まずは既にいなくなった車の運転手を探すように周囲を見渡す。
しかしその相手がいないと分かると、彼は舌打ちを零した。
それから今度は、胡桃沢くるりの方に視線を向ける。
「お前も、気を付けないとダメだぞ? 俺が助けないと死んでたかも知れないんだからな?」
強い言葉で、言い聞かせるように。
それはまさしく『説教』だった。
(え? 私、叱られてる?)
顔見知りとはいえ、ほとんど初対面に近い関係で、話したのも初めてだ。
それなのに、当たり前のように説教ができる人間を、彼女は初めて見た。
というか、思い返してみると……叱られたことすら、生まれて初めてである。
(父にも怒られたことがないのに……)
生粋のお嬢様として生まれた彼女にとって、それはとても新鮮な体験だった。
「ご、ごめんなさい……?」
叱られた時、どういう反応をすればいいのか、彼女には分からない。
だからとりあえず謝ってみたが、竜崎龍馬は許してくれなかった。
「別に謝ってほしいわけじゃねぇよ。今後はもっと気を付けろって話だ……いつも俺が助けてやれるわけじゃないからな。次からは、自分のことは自分で守れるようにならないと」
ただし、その言葉は他者にマウントを取って気持ち良くなりたいだけの『自己満足な説教』ではない。
竜崎龍馬は、心から胡桃沢くるりのことを思って、あえて厳しい言葉をかけているのだ。
そのことに気付いて、彼女は目を丸くする。
さっきから、驚かされてばかりだった。
(こんな人間が実在するなんて……信じられないわ)
自分の身を省みずに、相手を助ける自己犠牲的な行為。
助けても見返りを求めない、無償の愛情。
相手のことを心から思える、奥深い優しさ。
それらを持ち合わせる人間を見て、胡桃沢くるりはこう思わざるを得なかった。
「まるで、ヒーローみたい……」
ヒーロー。
あるいは、救世主。
もしくは……『主人公』とも、表現できるだろう。
その言葉を受けて、竜崎龍馬は微かに表情を強張らせた。
しかしそれは一瞬で、まばたきした後にはもう、元通りの精悍な顔つきに代わっていた。
「ヒーローなんて、言いすぎだろ。俺は……普通の、人間だ」
謙遜の言葉を耳にして、胡桃沢くるりはギュッと胸を押さえる。
それは、無意識の行動だった。
(まずい……これはちょっと、ダメかもっ)
もう、我慢ができない。
驚愕でフタをしていた感情が、一気に爆発しそうである。
正直に言おう。
今、胡桃沢くるりは……ドキドキしていた。
運命的な出会いと、ハプニングと、会話を交わして……その心が、わしづかみにされてしまったのである。
(中山が、好きなのにっ)
もう、気持ちが抑えきれない。
たった一瞬で……たった数分間の出来事で、胡桃沢くるりの恋心が蝕まれていたのだ。
(もう、わけが分かんない……)
ぐちゃぐちゃにかきまわされた恋心に、胡桃沢くるりは苦悩する。
彼女も結局……主人公様の毒に、侵されてしまったのだ――
これが、生粋の『主人公』の特性である。
竜崎龍馬は、とにかく女たらしなのだ。
霜月しほの言葉通り、彼ほど『上辺』だけがいい人間は存在しない。
普通の女の子なら……いや、普通でない女の子だとしても、彼は自分を好きにさせてしまう。
つい先日まで、腐れていたが。
しかし、メインヒロインによって再起を経た主人公様は、元通りとても厄介な存在となっていた。
彼こそが、生まれながらの主人公。
ハーレムという道を突き進む男なのだ。
そんなキャラクターが復活したのである……もちろん、ラブコメの神様が、愛さないわけがないだろうーー
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