第二百四話 運命的な出会い

 早朝、まだ薄暗い時間帯に、彼女はぼんやりと歩いていた。


 郊外ということもあってか、道を歩いている人はほとんどいない。時折車が通りすぎていくだけで、この時間帯はあまり人の息吹を感じない。


 おかげで、胡桃沢くるりは考え事に没頭することができた。


(結局、昨日はこなかったなぁ)


 脳裏には、最愛の人の顔が浮かんでいる。

 家庭教師の契約は一週間。その期限は昨日だったのだが、彼は逃げるようにどこかに行ってしまった。


 契約を違反することになっているが、しかし胡桃沢くるりはそれも仕方ないと、ため息をつく。


(きっと、傷つけちゃったわよね……)


 無意識にツインテールの片方に手をやって、指でくるくると回す。悩んでいる時についついしてしまうクセだった。


(純粋な人だから、浮気なんて絶対に嫌がるに決まってるわ)


 つい先日のことだ。

 強引に中山幸太郎を引き留め、宿泊させた時に、彼女は仕掛けた。


 ベッドに潜り込み、手を握って体を密着させて、更には頬にキスをした。


(……まぁ、人によっては大したことのないスキンシップだろうけど)


 たとえば、二人が大人であれば。

 この程度の触れ合いで、感情が揺れ動くこともなかったかもしれない。仲のいい関係であれば、あるいはこのくらい平気でする男女もいるかもしれない。


(いえ……彼がそんなに浮ついた人間ではないことは分かっていたわ)


 言い訳しそうになる自分に気付き、戒めの意味をかねて軽く腕をつねる。


 油断するとすぐこれだ。

 この件に関しては、彼女は自身が悪いことをしっかりと認識していた。


(彼の純粋な部分を利用して、爪痕を残したことは事実だから……傷つけたことは、受け入れないと)


 そういうことをしてしまったから、先日は家に来てくれなかった。

 学校でも目を合わせてくれなかったし、休み時間になるたびにどこかに逃げられてしまった。


 明らかに避けられたいたが、そうされても仕方ないと、彼女はため息をつく。


(できれば嫌いにはなってほしくないけれど……どうかしら)


 昨日はずっとそればかり気になって眠れなかったくらいである。

 今日が休日で良かった。学校のことを気にせず、早朝からゆっくりと散歩することができる。


 おかげで、思考も冷静になりつつあった。


(でも、あれくらいやらないと『私』を彼に残せなかった)


 自分の行動に後悔はない。

 罪悪感や申し訳ない気持ちはあるが、やったことを取り消したいとは思わない。


(霜月しほに、打ち消されたくないものね……)


 胡桃沢くるりには、懸念していることがある。

 今までは、思い通りになりすぎて逆に怖いくらい、物事が順調に進んでいたが……しかし先日、想定よりも早く、霜月しほが復帰した。


(予定では今週いっぱいは休むと思っていたのになぁ)


 昨日、彼女が学校に来たことで、中山幸太郎にも変化があった。

 恐らく、何か話したのだろう。そのせいで彼は先日よりも痛々しく、目に見えて傷ついており、落ち込んでいた。


(関係にヒビを入れたことは、確かだと思う……その証拠に、中山は霜月とあまり話さなかった)


 学校で二人はよそよそしかった。

 それは、彼女の計画が順調であることの証左でもあるが……それでも、霜月しほの存在が気になって仕方ない。


(たぶん……こちらを観察するみたいに見ていたし、きっと私の匂いも嗅ぎついてるでしょうね)


 先日、霜月しほは胡桃沢くるりを凝視していた。その視線に気付いていたからこそ、彼女は警戒していたのだ。


(何か、手を打ってきてもおかしくないわ……その前に、私の存在をもっと中山に刻まないと)


 次の手を探る。

 中山幸太郎が、仕方なく胡桃沢くるりを受け入れるような状況を作ろうと、画策する。


 だから彼女は、注意がおろそかになっていた。


「…………ぁ」


 気付いた時には、もう遅かった。


(――危ないっ)


 ぼんやりと散歩をしていたせいで、周囲を気にしていなかった彼女は、車が接近していることに気付けなかった。


 道路を横断しようとして、途中で車が接近していることに気付く。

 しかも車の方も減速する気配はない。運転手が何をしているかは分からないが、そのままだと轢かれてしまうだろう。


 慌てて走り出そうとする。

 しかし急に力を入れたせいか、体が上手く動かずに、つまずいてしまった。


(……ダメかも)


 あまりに予想外のハプニングに、息を飲む。


 もう、何もできない。

 反射的に目を閉じて、車の衝撃を待つ。


(これは……罰なのかなぁ)


 心の中では、やはり後悔が渦巻いていた。

 中山幸太郎を傷つけた罪に呻きながら、その瞬間を待つ。


 その時、だった。





「危ねぇ!!」





 不意に、何者かに引っ張られた。

 その時、体が一気に浮き上がって、歩道側に弾き飛ばされる。


(……生きて、る?)


 予想していた死の衝撃は訪れることなく。

 恐る恐る目を開けて、自分を助けてくれた人物に視線を向けた。


「あっ」


 そして見つけた顔に、目を見開く。

 その顔は、知っている顔だった。


 クラスメイトで、今まで話したことのない男子である。

 でも、名前は知っていた。


「……竜崎龍馬?」


 そう、彼の名は、竜崎龍馬である。

 まさかの遭遇に、胡桃沢くるりは呆然としてしまうのだった――

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