第百九十四話 霜月しほの異常性


 ――嫌な音が聞こえた。

 歪んだ異音を発する大好きな人を見て、彼女は怒りを覚えた。


(どうして、こんなに純粋な人を苦しめるのかしら?)


 耳にした雑音に顔をしかめる。

 力づくで強引に捻じ曲げられた彼の音色は、聞くに堪えないほどに穢れていた。


(彼を傷つけたのは、誰?)


 心の中で問いかける。

 授業中、教員の話を聞き流しながら、大好きな彼のことを思う。


 朝に見た彼――中山幸太郎の痛々しい顔が、忘れられなかった。

 彼から漏れていた奇妙な音が、しほの頭の中でずっと鳴り響いていた。


(あんな音、聞いたことがないわ……)


 霜月しほは、耳がいい。

 聴覚が鋭く、音に敏感である。

 ただし、それは物理的な意味合いに限った話ではない。


 先天的に耳が良すぎるせいか、彼女は様々な感覚を『音』で表現するクセがあったのだ。


 彼女いわく、人間はその時に抱いている感情によって、発する音が違うらしい。

 彼女いわく、人間は人柄を表すような音色を常に奏でているらしい。


 そういった、想像しようとしても難しい独特な表現技法は、彼女の生まれながらの性質に起因したものである。


 他人には到底理解しようのない感覚ではあるが、しかしそれが間違いというわけではない。むしろ彼女の感覚は大抵の場合正しかった。


 たとえば、竜崎龍馬の異常性にいちはやく気付いたのも、この感覚があってのことだった。

 他にも、中山幸太郎の魅力に気付けたのも、耳が良くて他者の感情を読み取ることに長けていたおかげである。


 だからこそ霜月しほは、中山幸太郎の異変に作為的な意図が含まれていることも、感じ取っている。


(幸太郎くんは、誰かに意地悪をされて、傷ついていた)


 まるで、完璧に調律されていた楽器が、何者かの手によってグチャグチャにされてしまったかのような。


 自分の好みに調整していた音色を崩されてしまって、しほは怒っていたのである。


(もし、仮に……幸太郎くんが、現状をイヤがっていなかったなら、そんな彼を受け入れてあげても、良かったのだけれど)


 彼女は嫉妬深い少女ではあるけれど。

 しかし、嫉妬という感情を大きく飛び越えるくらい、中山幸太郎を愛している。


 もしも、彼が自分以外の女の子を好きになってしまったのなら。

 仮に、その子も含めて二人を愛させてほしいと、お願いされていたら。


 その時は恐らく、しほは受け入れていただろう。


(もちろん、欲を言えば私だけを愛してほしいわ……でも、愛されないくらいなら、二人まとめてでも愛される方がいいものね)


 妥協することにはなるが、それもまた愛の形だと理解していただろう。

 そして、そうなってしまうことは、中山幸太郎も察していた。


 ただ、彼は抗っていた。


 しほだけを愛そうとして、苦しんでいた。

 そういうところを見た彼女は、妥協しようとしていた自分を恥ずかしく思ってしまった。


(だったら、助けてあげないといけないわ……私の大切な宝物を、守らないといけないもの)


 今回の件に関して、彼女もまた中山幸太郎に対して、申し訳なさを感じている。


(彼の隣から離れてしまった……インフルエンザになんて、かかるんじゃなかった)


 油断していた。

 不意を突かれて体調を崩してしまった。

 そんな自分に、しほは苛立っている。


(幸太郎くんを、私なしではいられない体にしたのは、私なのに)


 そして、もう一つ。

 しほは大きな責任感を感じていた。


 彼女は意図的に、中山幸太郎を自分に依存させていた。

 自分なしではいられない体にしていた。


 彼本人は『俺は弱くなった』と認識しているが。

 しかしそれは、ある意味で考えるとしほの思惑通りでもある。


(まさかこのタイミングで彼に手を出すなんて……いったい、どこの誰かしら?)


 霜月しほは、わずかに唇を尖らせる。

 その顔には、中山幸太郎には絶対に見せないような、狡猾な表情が浮かんでいた。


(まんまとしてやられたけれど……覚悟してなさい? 絶対に、許さないわ)


 ――中山幸太郎は、しほを天真爛漫な女の子と考えているかもしれないが。


 だけど、彼女は無知で無垢な天使のような人間ではない。


(幸太郎くんを傷つけた罪を、償わせてあげる)


 霜月しほは、恋に関してかなり狡猾な人間だ。

 そして始まるのは、復讐劇。


 愛憎にまみれた、ドロドロのラブコメである――




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