第百九十三話 第三部の主人公
しほの言葉は、俺の心を軽くしてくれた。
でも、刻まれた傷跡は深く、治癒されるにはしばらくの時間がかかりそうである。
「やっぱり、私の目は見れない?」
「……ごめん」
「手を握るのも、ためらっちゃう?」
「……うん」
「私が今、あなたを抱きしめたら……苦しい?」
「……たぶん」
正直に答える。
今、しほからそういうことをされても、素直に喜ぶことはできないだろう。
「どうしても、君を裏切った罪悪感が、拭えない」
申し訳ない気持ちで胸がいっぱいになる。
しほに愛されれば愛されるほど、自分なんて――というネガティブな思考に囚われてしまう。
胡桃沢さんは相当頭がいいのだろう。
キスや添い寝をされなければ、容易に立ち直ることができたはずなのに……ものの見事に、彼女の術中にハマっていた。
「そっか」
しほは俺の様子を見て、少し寂しそうに笑っている。
それから、俺から一歩だけ離れて、手を離した。
「だったら、無理させるわけにはいかないわ」
……普段よりも口数が少ないのは、俺に対して気を遣っているからだろう。
「ごめん」
それすらも、申し訳なくなる。
しほに寂しい思いをさせてしまった自分に苛立ってしまう。
「大丈夫よ。謝らなくていいわ……むしろ、自分を責めないでね? 私の大好きな幸太郎くんを傷つけたら許さないわよ? たとえ、あなた本人のことだとしても、怒るんだからっ」
「……怒るのか?」
「そうよっ。プンプン!」
自分で擬音を口にしているので、怒っているようにはまったく見えない。相変わらず微笑ましくて、少しだけ癒された。
「だったら、怒られたくないし……やめとこうかな」
頷いてから、小さく笑った。
そんな俺を見て、しほは満足げに頬を緩めた。
「やっと、笑ってくれたわ……良かった。でも、もっと笑えるようにしてあげるからね?」
今度は奥歯をかみしめるように唇を固く結んで、彼女は俺をまっすぐに見つめてくる。
瞳には、先程も見た闘志の炎が燃え上がっていた。
やっぱりあれは見間違いではなかったようだ。
「幸太郎くんには、ちょっとだけ時間が必要なのね? 本当は、もっとイチャイチャしたかったけれど……仕方ないから、待ってるわ。あなたが、自分をちゃんと許せるようになったら、今度はいっぱい甘えさせてね?」
「うん……ごめんな。あと、ありがとう」
「まったくだわっ。本当に、感謝してね? 私は本来ならとっても甘えん坊なのよ? ……まぁ、幸太郎くんに甘えられるのは、『やさぶか』でもないのだけれどねっ」
「いや……『やぶさか』でもない、だけどな」
「え? そうだったかしら? うーん、やっぱりお勉強は難しいなぁ……あ、そろそろテストだし、せっかくだから幸太郎くんはきちんとお勉強していなさい? そうじゃないと、私みたいなおバカちゃんになっちゃうわよ?」
「勉強はするけど、しほはやらないのか?」
俺よりもしほの方が勉強の必要性はあると思うのだけれど。
しかし彼女は、力強く首を横に振った。
「私には、やることがあるから」
そう告げて、彼女は踵を返す。
「じゃあ、もう教室に戻るわ……幸太郎くんは、体の震えを止めてから、戻って来てね?」
「――え?」
指摘されて、ハッと自分の手を見つめた。
すると、しほの言葉通り、微かに震えていた。
やっぱり、まだしほに対して臆しているのかもしれない。嫌われるかもしれない、という恐怖が消えなくて、体がずっと震えていたのだろうか。
どうやら、しほは俺の様子に気付いていたみたいだ。
「じゃあ、バイバイっ」
足早にこの場を去っていく。
今、俺にとって一番の治療法は、距離と時間を空けること。
それが分かっているから、彼女はそうしたのだろう。
「うん、バイバイ……」
去っていく背中を見ていると、寂しい気持ちもあったけれど。
同時に、どこか安堵したような自分もいるので、ため息をついてしまった。
罪悪感の檻から抜け出すには、もっと時間がかかるのだろう。
今、俺にできることは……ゆっくりと、休むことだけだった――
――これにて、三部の俺の役割は終わりである。
いったいいつから、俺が主人公だと思い込んでいただろうか。
結局のところ、俺はどんなに成長しようと、物語の奴隷でしかない。
この作品における主人公は、残念ながら俺ではない。
物語を動かしているのは、常にあの子一人だけである。
さぁ、前振りはようやく終わった。
次からいよいよ本編が始まる。
ここから紡がれるのは、霜月しほの物語。
メインヒロインが、か弱い主人公を救うラブコメである――
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