第百八十八話 資格はく奪
たとえば、自分を『善人』だと偽る悪人がいたとしよう。
本性は誰よりも悪い人間だが、それを悟られずに、死ぬまで善人を演じ続けたとしたら……その人は結果的に『善人』であると、言えるかもしれない。
つまり、嘘も最後まで貫き通せば、真実になるということだ。
少なくとも、他者評価ではまぎれもない『善人』と認識されるのだから、当然である。
俺もその論理で言うのなら……死ぬまで胡桃沢さんとの関係を隠してしまえば、結果的に何もなかったことと同じである。
彼女との関係を知る者は俺と本人しかいない。そして本人がこの関係について口外しないのであれば、後は俺次第でなかったことにもできたのだろう。
そうでなくても、せめてもう少しだけ肩の力を抜くことができたら良かった。キスも、添い寝も、俺がやりたくてやったわけじゃない。ちゃんと事情を説明したら、しほだって理解してくれると思う。
しほは独占欲が強くて、嫉妬しやすい女の子ではあるけれど。
だからと言って、わがままな頑固者ではないのだ。ちゃんと向き合えば、きっと関係を修復することだってできたと思う。
しほは絶対に俺のことを許してくれたと思う。
だけど……俺が、俺のことを許せなくなっていたのだ。
しほを裏切ってしまった。
純粋な彼女の気持ちと比較して、俺の気持ちは穢れているように感じたのである。
過去の鎖に縛られて、罪の爪痕を刻まれた上に、罪悪感の檻に閉じ込められた。
もう、身動きが取れない。
しほに対する申し訳ない気持ちが溢れて、止まらない。
「っ……」
だから、言葉が詰まる。なんて言っていいのか分からずに、押し黙ってしまう。
「幸太郎くん? どうしたの?」
もちろん、しほは俺の異変に気付いていた。
「大丈夫? 体調が悪いの?」
自分の方が病み上がりなのに、俺のことを心配してくれていた。
それが余計に、俺の罪悪感を肥大化させる。
「違う……けど、あのっ」
必死に何かを言おうとした。
でも、二の句が継げない。
こんなに醜い俺が、彼女に対して何かを言っていいのかと、不安になってしまう。
ダメだ。
自分に自信がまったく持てなくなっている。
自己嫌悪して、自己否定しすぎた結果、しほに気後れするようになっていたのだ。
もう俺には、資格がない。
彼女の隣にいる資格を失った――そう考えてしまう自分がいる。
それでも、必死に何かを伝えようとした。
謝罪なのか、言い訳なのか、あるいはしほへの気持ちなのか……とにかく何かを言おうと必死に言葉を探したけれど、結局は何も言えないままで。
「……ごめんっ」
思わず、逃げ出しそうになった。
そのまましほの隣を通り過ぎて、教室を出て行こうとする。
でも、彼女はやっぱり優しかった。
「ダメよ」
その優しさは、単に『甘い』わけではなくて。
「ちゃんと何があったか説明して? 私の目を、ちゃんと見て?」
通り際、服の裾を掴まれた。
逃げるなと、彼女はそう告げていたのである。
「大丈夫、不安にならなくてもいいから」
まるで、泣きじゃくる子供をあやすように、彼女は優しく話しかける。
「私はいつだって幸太郎くんの味方だもの。何があっても、どんなことをしていても……きっと、あなたの力になるわ」
事情なんて、何も分かっていないはずなのに。
「しほ……」
彼女はどうして、いつも俺がほしい言葉を口にしてくれるのだろうか。
その一言が、パニックに陥りかけていた俺の思考を落ち着けてくれた。
「来て……ここだと落ち着けないから、もっと人が少ない場所に行きましょう? あなたのお話を、聞かせてちょうだい?」
俺の手を引いて、しほは歩き出す。
ギュッと握られた手は、いつもと同じようにとても温かかった――
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