第百八十七話 罪悪感の檻
胡桃沢さんにキスをされて以降のことは、よく覚えていない。
気付けば朝になっていて、早朝に準備をすませた俺は、朝ごはんも食べずに彼女の家を出た。
歩いて帰ろうとしていた。時間はかかるけど、とにかく胡桃沢邸から逃げ出したかったのである。
でも、胡桃沢さんはそれすらも見越していたのか、敷地内を歩いている途中で、後ろから車が追いかけてきた。
運転していた使用人さんの話によると、胡桃沢さんに指示されて俺を見張っていたらしい。帰宅する際は車で送るように、とも言われていたらしく、乗車を促された。
少し迷ったが、歩くとかなり時間がかかるので、ありがたく送ってもらうことにして、やっと帰宅したのである。
まんまと掌で転がされて、何から何まで胡桃沢さんの思い通りに動かされてしまった。
挙句の果てにはキスをされて、罪悪感に苦しんでいる。
とにかくしほに合わせる顔がなかった。
金曜日。たぶん、しほは今日までは休んで、週明けには登校してくる。あるいは、明日には俺のスマホが戻って来るので、その時にもしかしたら連絡がくるかもしれない。
どうにか気持ちを落ち着かせたい。
しほにこの一週間の出来事を伝えて、謝りたい。
きっと、怒られてしまうだろう。拗ねるだろうし、妬いてしまうはずだ。でも、それが苦しいとは思わない。むしろ、俺をきちんと叱って、罰してほしい。
そうでないと、自分を許せない。
――いや、そこまでされても、俺は自分を許せるのか?
自分への問いかけは、霞む思考が邪魔をして、答えを出すことができなかった。
霧がいつまで経っても晴れない。
ここのところ、ずっと思考にモヤがかかっている。
でも大丈夫だ。
ずっとこんな状態だから、対策もきちんと分かってきた。
こういう時は、しほのことを思い出せばいい。
あの子との思い出が、俺の思考を透明にしてくれる。
「…………ふぅ」
息をついて、顔を上げる。
しほとの思い出が、またしても俺を助けてくれた。
脳裏に浮かんでいたのは、とある日のお昼休み。
一緒にご飯を食べただけで、さほど特別な場面ではない。
だけど、何気ない日常でさえも、彼女と過ごした時間は宝物になる。
「よしっ」
自分に気合を入れなおす。やっと前を向くことができた。
ちょうどその時に自宅へと到着したので、車を降りる。まだ朝の六時ということもあってか、梓はまだ起きていないようだ。
「ただいまー」
家に入っても、当然誰もいなかった。
ただ、リビングのテーブルに置いてあった手紙に、『遅くなるなら言って』と書かれていて、少し頬が緩んだ。
なんだかんだ、家族として帰りが遅い俺を心配していたのかもしれない。
その手紙のはしっこに『ごめん。先に学校に行ってる』と書いてから、静かに部屋へと向かった。
昨日から着ているジャージは脱いで、予備の制服に着替える。そういえば胡桃沢さんの家に制服を忘れていた。後で取らないといけない。
そんなことを考えながら登校の準備を済ませる。その時点でまだ六時三十分だったけど、なんとなく落ち着かなくて家を出た。
ちょうどいいタイミングで来てくれたバスに乗って、登校する。教室に到着したのは7時をちょっとすぎたくらいで、もちろん誰もいなかった。
教室で一人きりである。自分の席に座って、力を抜いた。
しばらくぼんやりしながら、思考をまとめよう……と、そう思っていたというのに。
相変わらず、ラブコメの神様は残酷だった。
「…………え? 幸太郎くん?」
不意に聞こえてきたのは、何よりも待ち望んでいた声であり……同時に、今は最も聴きたくなかった声だった。
「し、ほ?」
ハッとして、教室の扉に視線を向ける。
そこにいたのは、妖精めいた白銀の美少女だった。
「にゃ、にゃ、にゃんだってー!? やっと元気になったから、そわそわして早めに登校したら、びっくりだわっ……幸太郎くんがいる! うふふ、これは運命かしら♪」
俺を見つけて、彼女はとても機嫌が良さそうである。
鼻歌を口ずさみながら、ルンルンとスキップして近づいてくる。
「ねぇねぇ、幸太郎くんもびっくりした? 本当は月曜日に登校するはずだったんだけど、少しでも早くあなたに会いたかったから、がんばって元気になったのよっ! だから褒めてもいいのよ? ほらほら、私の頭がなでなでされたそうにウズウズしているのに、どうして気付かないのかしら?」
いつも多い口数が、更に多くなっているのは、喜びの現れなのだろう。
もちろん、彼女のおねだりを否定する理由がない。
だから、喜んで彼女の頭を撫でようとした。
でもそれは、できなかった。
「――っ」
不意に、息が詰まった。
息が苦しくなって、胸が痛みを発した。
心が痛かったのだ。
純粋で穢れのないしほを前にして、俺は……最悪なことに、自分の穢れを感じていたのである。
脳裏に思い浮かんでいたのは、胡桃沢さんにキスをされた時のこと。
あの真実が、俺を蝕んでいたのである。
「幸太郎くん?」
しほは不思議そうに首を傾げている。
そんな彼女から、俺は目をそらしてしまった。
もう、まともに直視することすら、できなくなっていたのである。
「……ご、めん」
ああ、ダメだ。
罪の意識が、俺を阻害している。
更に言うと、頭の中には霧が満ちていて、思考が霞んでいた。
今まではしほのことを思い出せば、気持ちもスッキリできたのに。
もう、彼女を目の当たりにしても、どうにもならないくらいに心が傷だらけになっているらしい。
「……っ」
言葉が、返せなかった。
何も言えなくなってしまっていた。
罪悪感の檻が、俺を閉じ込める。
その監獄から抜け出すには、犯した罪が重すぎたのかもしれない――
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