第百八十六話 罪の爪痕

「さすがに、口づけはできないなぁ」


 頬に触れた唇が離れる。

 呆気にとられていると、彼女はニッコリと笑って俺の手を握った。


 ついさっきまで、俺はぐっすりと寝ていた。

 もちろん寝る瞬間は誰もいなかったはずである。恐らくは、寝ている時に胡桃沢さんが部屋に入り、ベッドに忍び込んだのである。


 しかも、ただ添い寝するだけではなく、頬にキスをしてきた。

 更に言うと、身を寄せるようにくっついているので、まるで抱き合っているような態勢である。


 恋人のように手を握られて、体がすくんだ。

 むせかえりそうなほどに濃い胡桃沢さんの匂いが、彼女の存在をより強調している。


「ファーストキスを奪っちゃったら、さすがの中山でも怒っちゃうでしょ? 私ね、嫌われたいわけじゃないから、そこまではしないわ。でも、忘れられたくないから、少しだけ傷跡を残させてもらうわね」


 囁くような言葉は、明らかに俺に向けられたものである。

 たぶん彼女は、俺が起きていることを知っている。


「寝たふりをしたいなら、そうしてていいわよ。明日、気付かないふりをしてもらっても構わない。私も決して、このことに関しては触れない」


 イタズラっぽく笑いながら、今度は握っていた手を反して、俺の唇に触れてくる。なぞるように動かされた指が、まるで蛇のように這いずっていた。


「これで、できることは全部やった。後は祈って、願うだけ……中山が私のことを受け入れてくれますように――って、ね?」


 最後の猛襲は、あまりにも強烈なものだった。

 俺が起きているのはバレている。でも、目を開けたくない。寝たふりをしていないと、この場をやり過ごすことができない。


 だって、どう反応すればいいのか分からなかった。


 怒ればいいのか? 悲しめばいいのか? 拒絶すればいいのか?


 ――できない。

 何度も言うけれど、俺は鈍感な人間じゃない。

 胡桃沢さんの『好き』という気持ちを、痛いほど理解している。

 好意に対して嫌悪を返すのは難しいことだ。


 こういうところで、俺の人間性が出る。

 いつも受身で、流されてばかりいた弊害だ。明確な自分の意思を示すことができない。


 そんなんだから、いざという時に、何もできなくなる。

 本当に、情けない人間である。


(しほ……本当に、ごめん)


 心の中で何度謝ろうと、気持ちが晴れない。

 抱いた罪悪感は、胡桃沢さんの言う通りに『傷跡』となって、俺の心に刻み込まれていた。


 そういえば、かつて――メアリーさんにも、似たようなことをされそうになったことがある。

 文化祭が終わった後のことだ。空き教室で『ざまぁみろ』と捨て台詞を吐いた時に、自暴自棄になった彼女が俺にキスをしようとしてきた。


 あの時、もしも本当にキスをされていたら――俺はたぶん、しほとまともに目を合わせることができなくなっていただろう。

 その時は間一髪でしほが助けてくれたけれど。


 しかし今回は、その最悪の事態が現実になってしまったのである。


「中山……別に、一番になりたいわけじゃないわ。何度も言うけれど、二番目でいいの。少しでも愛を分けてくれたら、その分たくさんの快楽をあげる。私の父はね、お金だけはあるから……それを存分に利用するわ。なんなら、財布だと思ってくれても構わない。中山にとって都合のいい女でいいの。私は、あまり欲深くない人間だから。ただ、中山の隣にいる権利だけがほしい。そのほかには何も要らないわ」


 一気に、まくしたてるように胡桃沢さんは甘い言葉を囁く。

 それから立ち上がって、ようやく部屋から出ていってくれた。


 結局、俺は何も言うことができなくて。

 だけど、心が痛くて痛くて仕方なかった。


(本当に……本当に、ごめん)


 心の傷口から、血が溢れて止まらない。


 胡桃沢さんによって刻まれた罪の爪痕は、ずっと消えずに残ったままだった――

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る