第百八十二話 恋の強制力


 胡桃沢さんの家はかなり大きい。当然その分、広い土地が必要となる。

 そのせいか、場所としては少し郊外に位置していた。


 だから、自力で帰ろうとすると結構たいへんだ。

 土地勘もないし、スマホもないので、かなり迷うことになるかもしれない。


 だから今までは胡桃沢さんに甘えていた。車で送迎されることが当たり前になっていて、帰る手段を彼女に依存していたのである。


 その隙を見事に突かれてしまったのだ。


「車が故障したって……本当か?」


 突然、こんなタイミングで故障するものなのだろうか。

 俺がここに来るときはちゃんと動いていたのに、あまりにもタイミングが良すぎる気がした。


「ええ。もう時間も遅いし、替えの車を用意するのは難しいみたいね」


 白々しくそう言っているが、色々と違和感があった。


 そもそも、こんなにお金持ちの家なのに、送迎用の車が一台しかないってことがありえるのだろうか。


 というか、食事の準備に手間取っていたり、料理が食べるのに時間のかかる内容だったのも、今になって考えると不自然である。


 契約の期間は六日が経過していた。

 終わりも間近に迎えたこのタイミングで、やけに何も仕掛けてこないなと思っていたら、これである。


 全てが、仕組まれた罠のような気がしてならない。


「初めから、俺を帰すつもりはなかった……?」


 胡桃沢さんの意図を察して、唖然とした。

 ここ数日、露骨なアプローチがなかったので、油断していたのが仇となった……まんまと引っかかって、自分の愚かさに呆れてしまった。


「それを認めるのは少し難しいけれど……明日にはもう、この楽しい時間が終わっちゃうから、仕方なかったのよ」


 玄関まで来たと言うのに、その扉が開くことはなかった。


「ねぇ、中山……どうしてもイヤかしら。本当に、心の底から私のことを嫌悪しているなら、その時は諦める」


 まっすぐな思いを、言葉に込めて。

 真正面から、彼女は俺にぶつかってくる。


「でもね、少しでも私のことがイヤではないのなら……どうか、悪あがきすることを、許してほしい。私にとっては、最初で最後のチャンスなの。これが終わったら、私が霜月に勝てるタイミングはもうないから」


 胡桃沢さんは、懇願していた。

 瞳は不安に揺れていて、表情は緊張で強張っており、体は恐怖で震えている。ギュッと握られた拳と、固く結ばれた唇には、自分を奮い立たせるために力が込められていた。


「失礼は承知の上で、お願いする。今日は……泊っていって、くれませんか?」


 その姿が、あの子とかぶった。


 忘れもしない、宿泊学習の時に……しほが舞台上で竜崎の告白を断った時と、今の胡桃沢さんはそっくりだった。


 あの時のしほも、似たような顔をしていた。

 不安と恐怖に苦しみながらも、勇気を奮い立たせて困難に立ち向かう――そんなところを、好きになった。


 だから、今の胡桃沢さんを否定すると、かつて俺が好きになったしほをも否定するみたいで、胸が苦しくなった。


 そんな顔をするなんて、本当にずるい。

 もし俺が鈍感な人間なら、気付かないふりをして断れたかもしれない。


 でも、俺は竜崎龍馬ではないのだ。

 今、胡桃沢さんがどれほどの勇気を振り絞っているのかが、分かってしまう。


 恋する少女の一途な思いは、あまりにも純粋すぎて……だからこそ、苛烈なまでの強制力があった。


「……最後、だから」


 ほら、またしても俺はこうやって、言い訳してしまう。


「もう、明日が終われば、これからはこういうことも、しないから」


 大丈夫、どうせもう終わる。

 ここまでも何も起きなかった。

 今日一日も、なんともないはず。


 そう自分に言い聞かせる。

 直後、俺は無意識のうちに、首を縦に振っていた。


「わかった」


 こうして、俺は最後のチャンスを与えてしまったのである――

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