第百七十六話 都合の良すぎる愛情


「なんて、ね?」


 胡桃沢さんは思ったよりも早く解放してくれた。

 抱擁はわずか数秒程度だっただろうか。すぐに離れてくれたのは良かったのだけど、彼女の生々しい感触が背中にこびり付いていて、あまり良い気分はしなかった。


「冗談だから……あんまり怒らないで、ね?」


 あやすような物言いをされると、怒っている自分が拙く思えてしまうから、卑怯だと思う。


「……こういうのは、苦手だから」


 我ながら弱々しい言葉だった。

 今の俺では加減ができない。これ以上の感情をこめてしまったら、言わなくてもいいことまで口にしそうだったのだ。


 たとえば、気安く触るな――とか。

 そういう強い言葉を使うと、絶対に後悔するから嫌なのだ。

 つい先日もそうだった。胡桃沢さんに過剰に冷たくしてしまって、その後で後悔と自己嫌悪に苛まれてしまった。


 自分を否定するようになると、ろくなことにならない。

 それが分かっているから、感情を押し殺す。苛立ちや怒りを握りつぶすために、目の前にある肉を口に入れた。


「本当に、美味しいな……」


 食事はストレスを解消する。

 それが美味しい料理であればあるほど、充足感をも一緒に味わことができる。


 咀嚼するたびに、嫌悪感や苛立ちがすりつぶされていった。

 もしかしたら、そこまで胡桃沢さんは計算していたのかもしれない。


 いつもより大胆な行動に出たのは、俺の感情をコントロールできる自負があったから、なのだろうか。


「……人間って、不思議よね。どんなに辛いことがあってもね、美味しいごはんを食べたら、気持ちがスッキリするの。まぁ、食に依存したら過食になったり、あるいは拒食になったりしちゃうから、それも良くないのだけれど」


 上品に微笑んで、胡桃沢さんは俺の隣に座る。

 席はたくさんあるのに、わざわざ隣に座るところが、あざとかった。


「ちなみにこれは『フォアグラ』を使った料理よ。名前は……なんだったかしら。フレンチって料理名が呪文みたいだから覚えきれないのよね」


「ああ……聞いたことあるけど、食べたのは初めてだ」


「良かったわね。いい経験できたでしょう?」


 確かに、経験としては良いのかもしれない。


 俺はそこまで食にこだわりがあるわけでもないし、わざわざ高いお金を払ってまでこういう料理が食べたいとも思わない。


 だからたぶん、普通に生きていたら出会うことのなかった味である。


「私も具体的な金額は知らないけど、結構なお値段がするみたいね……まぁ、父にとっては痛くもかゆくもないと思うし、遠慮とか気遣いとかは不要だけれど。ただ、それを与えているのは私の存在があってこそ、というのは理解してほしいわ」


「……つまり、少しだけ抱き着くくらい、許してほしいってことか?」


 なんとなく、彼女の言いたいことが分かった気がした。

 目を見て、表情を読み取って、言葉の感情を紐解くと……自然に、胡桃沢さんの思いも、理解できてしまったのである。


「そういうこと。中山……私は、そこまで欲張りな人間ではないの♪」


 俺に意思が伝わったからなのか。

 胡桃沢さんは、とても上機嫌だった。


「あなたの愛を独占したいとも思っていない。ただ、その気持ちの一部を分けてほしい……その代わり、たくさんあなたを幸せにするわ。美味しい料理をいくらでも食べさせてあげるし、欲しいものがあったらなんでもあげるし、私にできることなら、なんだって奉仕する」


 純粋で、透き通っていて、真っすぐな思いが……逆に、怖かった。


「……っ」


 果たしてその思いは、自然発生的に生まれた『本物』だろうか。


 いや、違う。

 本物はもっと、濁っている。様々な感情がせめぎあい、混じり、かきまわされて、だからこそ真似できないような色が宿る。


 たとえば、霜月しほのように。

 俺を壊したいと思うほどに、ただの愛情では満足できないというほどに、暴力的な愛情であれば、人間らしいと言えるだろう。


 でも、胡桃沢さんの愛情は……あまりにも人工的すぎた。


 欲張りな人間ではない?

 そんなの、おかしい。欲張りじゃない人間なんて、いない。


 胡桃沢さん……君の思いは、あまりにも都合が良すぎるのだから――



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