第百七十五話 小動物の手懐け方
――ふと、しほとの食事を思い出したのは、胡桃沢さんとごはんを食べることになったからである。
「今日は少し遅くなっちゃったし、夜ご飯を食べていって?」
家庭教師を初めて、三日が経過した。
開始した直後こそ気が重かったのだが、初日以降の胡桃沢さんは積極的なアプローチをせずに、ずっと俺に勉強を教えてくれていた。
だからこそ無碍にはできずにいる。その上、勉強にも集中していたので、この日は帰宅時間が遅れてしまったのである。
「いや、いいよ」
もちろん、あまり馴れ合うつもりもないので断った。
しかし胡桃沢さんはイタズラっぽく笑って、俺の肩に手を置いた。
「言うこと聞かないと、キスしちゃうって言ったら?」
「……抵抗するけど」
「私、こう見えて護身術を習得しているから、たぶん中山より強いけど? 果たして抵抗できるかしら?」
冗談めかしてはいるのだが、何も言わないでいると本当にキスされそうで、なんとなく不気味である。
なので、断ることはできなかった。
「まぁ……すぐに帰してくれるなら」
「ええ、もちろん長居はさせない。もうお食事の用意もできているし、大丈夫よ」
「え? できてるのか?」
びっくりした。もう完成しているなんて、まるで――
「……もしかして、今日は初めからそのつもりだったのか」
ふと、気付く。
食事の用意ができているということは、即ち準備をしていたということだ。
つまり彼女は、最初から俺を引き留める算段を立てていたようである。
「あら、バレちゃった? もちろん、最初から一緒にお食事をしようと思ってたの……まぁ、無理に引き止めなくても、今日はたくさん集中していたから、手間が省けて何よりね」
やっぱり、そうだったのか。
まんまとしてやられたというか…‥いや、今日に限っては俺が油断しすぎていたのかもしれない。
最初はあんなにイヤだったのに、今ではすんなり勉強会を受け入れている自分がいる。
胡桃沢さんに教えてもらうことにも抵抗があったのに、いつの間にかそれもなくなっていたのだ。
「っ……」
改めて、身を引き締める。
警戒して胡桃沢さんから距離を取ると、彼女はそんな俺を見て唇を尖らせた。
「はぁ、残念ね。警戒心が強すぎてあんまり懐いてくれない……」
「俺は小動物じゃないぞ」
「似たようなものよ。まぁ、いいけど……ほら、来て? おいしいごはんを用意してあるの。父のお金をふんだんに使ったのよ? いい経験になると思うし、あんまり気負わないでね」
そう言って、胡桃沢さんは部屋を出ていく。
いつまでもここにいたところで意味はないので、俺も少し遅れて彼女についていった。
そうしてやってきたのは、無駄に広い食堂である。
そこには映画やドラマでしか見たことがないような長いテーブルがあった。総勢で二十人は余裕で座れそうなほどに大きいが、それを俺と胡桃沢さんだけで使うことになっているようだ。
壁際には何人もの使用人っぽい人が並んでいる。目を伏せて、、音一つ発さずに整列していた。
何から何まで、空想の世界みたいな出来事だ。
庶民の生活しか知らない俺にとって異次元の生活感である。
「どうぞ、座って? 今、すぐに食事がくるから」
そんな豪邸の主であるはずの胡桃沢さんが、エスコートするように椅子を引いた。言われた通りに腰を下ろすと、すぐに使用人が料理を持って来てくれる。まるで王様にでもなった気分だった。
「……な、なんだこれ?」
テーブルに置かれた食事を見て、しかし名前の知らない料理に、首を傾げる。
いや、高そうで美味しそうなことは見て分かるのだが、名前が分からなかった。庶民なので、金持ちの食べる料理なんて分かるわけがない。
これは、肉……だと思うけど、それ以上に説明のしようがなかった。
「いいから、食べてみて? とっても美味しいから」
「う、うん……」
ナイフとフォークが手元にあるけど、使い方も知らないので、適当に切って口に入れてみる。
すると、表現できないくらいに美味しくて、思わず口を押さえてしまった。
「感想は?」
「……お、美味しい?」
「なんで疑問形なのかしら」
「いや……美味しい以上の言葉が、思いつかなくて」
その表現は、正しいようで正しくない。
でも、美味しいことに間違いはないので、率直にそう告げた。
すると胡桃沢さんは、楽しそうに笑っていた。
「いい反応するじゃない。こういう顔も、素敵ね」
それから彼女は、俺の肩に手を置いた。
普段はすぐに払いのけていたかもしれないけれど、美味しいものを食べた衝撃のせいか、今は反応が鈍くなっていた。
しほと比べると、少し指が長いだろうか。
スラっとした手が俺の肩を握って……それから気付いた時には、後ろから抱き着かれていた。
「やっぱり、小動物ね」
耳元で、湿っぽい吐息と一緒に、小さな声がささやかれる。
「餌をあげたら夢中になるし、警戒心も緩んじゃう……そういうところが、愛らしくて仕方ないわ」
その抱擁に、俺はうまくリアクションできなかった。
胡桃沢さんは、まるで蛇みたいだ。
毒で神経を侵し、ゆっくりと丸飲みにする。
そんなイメージに囚われて、結局俺は何もできなかった――
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