第百七十七話 心のゆるみ

 胡桃沢さんと勉強会を始めて、五日が経過した。

 今日は水曜日である。だいたい、一日四時間くらいの間、胡桃沢さんと勉強をしていた。


 ずっと一緒にいた、と言えるほど長い時間を過ごしたわけではないのだが……色々と教わっていくうちに、勉強の『コツ』のようなものを掴んだ気がする。


『自分の言葉で解釈したらいいの。教科書に載っている言葉を丸暗記しても理解なんてできないから、意味なんてないわ』


 やっぱり、頭のいい人は考え方が違う。

 以前まではなんとなくで勉強をしていたのだが、胡桃沢さんのおかげで意識が変わった。教科書の文字を読むだけではなく、考えることにも比重を傾けた。


『結局、反復練習が一番の勉強法だから。物理、数学に関しては公式を使ってひたすら問題を解くこと。その他の科目は暗記が大切ね。見て、読んで、書いて、繰り返す。時間さえかければ点数なんていくらでも上がるわ』


 勉強法についても、胡桃沢さんは惜しみなく指導してくれた。

 おかげで解ける問題が増えた。あてもなく勉強をしている振りをして、適当に教科書ばかり見ていたあの時に比べたら、格段に頭が良くなっていると感じたくらいである。


『中山は成績は悪いけど、頭は悪くないわ。集中力もあるし、何より継続する力に関しては、他の人よりも優れている。どうしてそんなに嫌な顔せずに勉強をできるのかしら……根性、あるのね』


 そう言われた時は、なんというか……うん。

 嬉しくないといえば、嘘になってしまうだろう。


 胡桃沢さんは俺のことをよく見てくれていた。

 当初は不貞腐れて、態度も悪かったというのに、辛抱強く付き合ってくれて、俺と向き合い続けてくれたのだ。


 そのせいで、五日も経過した頃には……彼女に対して敵意を抱くことができなくなっていたのである。


 だって彼女は、あまりにも献身的すぎるのだ。


「中山にとって、有意義な時間になってくれて良かった」


 今日もまた勉強会を終えて、一緒に食事をした後。

 俺は胡桃沢さんと一緒に車に乗っていた。


 俺の家まで送ってもらっている最中のことである。

 後部座席で並んで座っていた胡桃沢さんが話しかけてきた。


「別にね、私はあなたに嫌がらせがしたかったわけじゃないの。もちろん、私を好きになってほしいという思いに偽りはないけれど……それに関係なく、中山にとっては意味のある時間になってほしいとも、思っていたから」


「俺にとって意味がある時間?」


「ええ。私の思いが報われようと、報われずとも、それに関係なく……あなたに何かを与えたかった。知識でもいい。物でもいい。とにかく、この時間を過ごしたことで、中山にとってプラスの経験になることも、ちゃんと意識していたのよ?」


「そういうことか……」


 確かに、この勉強会を経て意識が変わった気がする。

 今後、この経験は俺を助けてくれるだろう。そういう意味で考えると、確かに胡桃沢さんの言葉は俺に大きな影響を与えてくれたと思った。


「あのね……私という存在に関係なく、その経験は大切にしてね? きっと将来、中山の大きな力になってくれるはずだから」


 彼女は嬉しそうに笑っていた。

 俺のために何かをした――たったそれだけで、瞳を潤ませるほどに喜んでいたのである。


 油断すると、泣きそうに見えた。

 もちろんその涙は悲しみによって流れるものではない。歓喜によって溢れ出た、感情の雫だった。


「あと二日間だけど、よろしくね?」


 ふと窓の外を見たら、見慣れた景色が広がっていた。

 そろそろ家に到着するだろう。鞄を抱えて降りる準備を整えたら、ちょうど車が停止した。


「じゃあ、バイバイ」


 手を振る彼女に、俺は軽く手を挙げた。


「うん。また明日」


 そう言って、扉を閉める。窓越しに見えた胡桃沢さんの顔は、ずっと笑ったままだった。


 ほっぺたが落ちそうなほどに緩んだ笑顔である。そのまま車が走り去ったのを確認して、家に向かう。


 その時、ハッとして立ち止まった。


「俺……なんで『また明日』なんて言ったんだ?」


 自分の発言が、おかしいことに気付いた。

 勉強会も、胡桃沢さんも、嫌で嫌で仕方なかったのに……いつの間にかそんな感情がなくなっていたのである。


 明らかに、心が緩んでいた。

 ずっと張りつめていた緊張の糸が、気付かないうちに切れていた。


 つまり、俺は……胡桃沢さんに心を許してしまっていたのである。


「嘘だろっ」


 途端に、罪悪感がこみあげてきた。

 しほへの罪の意識で、胸が苦しかった。


 こんなつもりじゃなかったのに。

 しほだけが俺の全てだったはずなのに。

 他の女の子に興味なんてなかったはずなのに。


 俺はいったい、どうなっているのだろうか――

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