第百七十話 生ぬるい愛情
ゆっくりと、耳にかかった髪の毛をかきあげる。
窓の外を眺めて微笑むその横顔は、かつて何度も見惚れたものだった。
そういえば俺は、この子と仲がいいと思っていた時期がある。
おっとりとした性格、大和撫子みたいに綺麗な顔立ち、男性受けしそうな肉付きのいい体格……どれもが一級品で、俺なんかでは遠く及ばないけれど、それでもこの子は俺のそばにいてくれた。
赤ちゃんの頃から高校一年生の入学式まで、なんと15年以上にも及ぶ付き合いである。
なんとなく、俺に好意を抱いてくれているのかな……と、勘違いしていた自分が恥ずかしい。
今なら分かる。15年も一緒にいた理由など、なかったことを。
ただただ、惰性で一緒にいてくれていただけということを、今なら理解できる。
だって、入学式に竜崎龍馬と出会い、恋に落ちた彼女は、俺の隣からすぐに離れていったのだ。
俺という存在はただの置物で、思い入れなど何もなかったのだと……嫌でも思い知らされたのである。
「天気がいいですね」
久しぶりの会話だというのに、まるで毎日顔を合わせているかのように、どうでもいい雑談を始める結月。
「こういう日はお洗濯をしたくなります……布団を干すのも悪くないかもしれません。でも、冬は天候が変わりやすいですから、ちゃんと予報を確認した方がいいですね」
――やめろ。
「幸太郎さん、二週間後くらいに期末テストがありますけど、お勉強はしていますか? わたくしはあまり捗っていないので、少し不安ですね」
――話しかけるな。
「確か……クリスマスの前日くらいでしたっけ? その後は冬休みに入るので、待ち遠しいです」
――うるさい!
「っ……!」
心の中の声を叫べたら、どんなに良かったのだろうか。
気付くともう、手遅れだった。
「まぁ、お勉強なんて、将来に役立つものではありませんから……できなくたって、いいですよね」
いつもそうだ。
北条結月と会話をしていると、不思議な感覚を覚える。
「成績が悪くてもいいんです。人間、大切なのは中身ですから。その点、幸太郎さんはとても素敵なので、大丈夫ですね」
彼女はいつだって、甘い。
問題を直視させてくれない。
結月と話していると『このままでいいんだ』と勘違いしてしまう。
闘争心や向上心が萎えていく。悔しいとか、頑張りたいと思う感情が、消え失せていく。
今もそうだった。言葉を叫ぶほどの気力が、彼女の言葉と声で根こそぎ奪われたのである。
それが、北条結月というキャラクターの特性だった。
「ほら、覚えていますか? 小学生の頃、幸太郎さんはいつもテストの点数が悪かったですよね? それでも、今は立派な高校生です。勉強なんてどうでもいいんです」
意味もなく、根拠もなく、結月は無条件に他人を『肯定』する。
でも、勘違いしてはならない。
結月は肯定しているだけで『愛している』わけではないのだ。
つまり彼女は、言葉に責任を持たない。
大丈夫だよ、と言うくせに――自分からは手を差し伸べることはない。
そのままでいいよ、と肯定してくれるくせに――ありのままの俺を受け入れてはくれない。
素敵だね、と褒めてくれるくせに――好きにはなってくれない。
北条結月は、そういう人間だ。
今ならそれが分かるから、勘違いすることもないのだが……しかしかつては、騙されていた。
結月の言葉を信じて、受け入れて、励みにして、俺は純粋に喜んでしまっていたのだ。
おかげで、中山幸太郎という人間は、成長できなかった。
何故なら、あまりにも結月が肯定してくれるから、成長する意味を見出せなかったのである。
「所詮、人生なんて巡り合わせですからね。つまり、運とタイミングですべてが決まるんです。頑張っても、頑張らなくても、結果は一緒なんです」
まるで『麻痺毒』だ。
神経を侵し、思考を曇らせ、自由を奪う。
北条結月の愛情は、そう思わせるほどに生ぬるい。
おかげで、過去の俺は自分を受け入れてしまっていた。
モブキャラだというのに、ありのまま自分が完成されているのだと、思い違いをしてしまっていたのである。
(……竜崎もきっと、そうなんだろうなぁ)
あいつもたぶん、この麻痺毒に侵されているのだろう。
情けない自分でいいのだと、生ぬるい愛情に身を浸しているのだろう。
そうなったら、もう終わりだ。
竜崎龍馬は、この先は二度と浮上することができない。
(俺も、お前も……本当に、情けないな)
まぁ、他人のことをとやかく言ってられるほど、俺はいい御身分ではないのだが。
ともあれ、北条結月のせいで、またしても過去を思い出してしまった。
俺は今、あの時の自分に戻りかけている。
せっかくしほのおかげで成長できたというのに……全部、無意味になろうとしていた。
果たして、この過去を振りほどくことはできるのだろうか――
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