第百六十九話 鎖状の因縁
こうして、胡桃沢さんの家庭教師をすることになった。
期間は一週間だけである。大して長い期間というわけでもない。しほも丁度インフルエンザで休んでいるので、タイミングとしても悪くない。
仮にしほが元気なら、もちろん家庭教師を断っていただろう。
いくら母親に命令されていたとしても、しほがそばにいてくれたら……きっと、過去の鎖だって振りほどくことができたと思う。
でも、しほが隣にいない今、俺は思うように動くことができずにいた。
モブキャラから主人公になってしまったが故に、ヒロインがいなくては何もできない特性を持ってしまっている。
そんな自分が情けないけれど……しかし、運命に抗うことはできなかった。
辛い時、苦しい時、迷っている時、いつも手を取ってくれたあの子はいないというのに……こんな状況になっても、俺は救いの手を待ち続けているのかもしれない。
「…………」
お昼休み。食事をする気にもなれなくて、ぼんやりと廊下を歩いていた。目的などない。ただ、気晴らしに散歩していただけである。
思考は相変わらずぐちゃぐちゃだ。昨日からやけに頭が重い……明らかに頭の回転が鈍く、まるで自分が自分ではないかのようでさえあった。
こういうとき、時間が流れるのが遅く感じる。
(まだ、しほと仲良くなる前かな……中学生の時も、ずっとこんな感じだった気がするなぁ)
ふと、思い出す。
久しぶりの感覚に懐かしさを覚えたのだ。
まだ俺が自分をモブキャラだと認識していない時期だった。
主人公だと勘違いしていたあの頃、俺はあまり物事に大して深く思考することがなかった。
義妹の梓や、元親友のキラリが、『ロボットみたいだった』と表現した過去の俺は、今みたいにいつもぼんやりしていたのだ。
「…………」
不意に立ち止まり、ゆっくりと窓の方に視線を向ける。
そこに反射して映った俺の顔は、生気がないと言うか……まさしく『無表情』と形容するのが相応しい顔をしていた。
しほと出会ってから見ることのなかった自分の姿に、息をつく。
肩を落として、窓から目をそらした……ちょうどその時だった。
「ふんふんふ~ん♪」
やけに上機嫌な女子生徒がそばを通り抜けていった。
たなびく黒髪を何気なく目で追いかけていると……何を感じたのか、彼女の方も足を止めた。
それからクルリと振り向いて、俺に意識を向けたのである。
「あら? えっと……幸太郎さん?」
おっとりとした笑顔が向けられる。
見ているだけで力がぬけそうな緩い空気に、体が弛緩した。唐突に崩れ落ちそうになって、グッと足に力を入れる。
まったく……なんてタイミングで、再会したんだ。
ずっと俺なんていないかのように振る舞っていたくせに、こんな時に話しかけてくるなんて……やっぱり、何者かの作為的な匂いを感じてしまう。
それがきっと『ご都合主義』と呼ばれる概念なのだろう。
「結月、か」
かつて、仲の良かった幼馴染の名を呼ぶ。
そうすると、それに応えるように、結月は頷いた。
「はい、結月です。うーん、なんだか懐かしい感覚がします……あれ? 幸太郎さん、わたくしと同じクラスですよね? なんで今まで、幸太郎さんのことに気付かなかったのでしょうか?」
きょとんとした顔で小首を傾げている結月に、悪気があるようには見えない。
本当に、心の底から不思議なのだろう。
「幼馴染なのに、どうして疎遠になっていたのでしょうか? まるで久しぶりに再会したみたいですね」
「……まぁ、お互い成長して、色々と変わってるんだと思うよ」
素っ気なく返事をして、そのまま歩き去ろうとする。
このまま会話をしていると、昔のことを思い出しそうになる。
だから、逃げようとしたのだが……しかしそれは、うまくいかなかった。
「変わったのでしょうか? うーん……今の幸太郎さんは、昔と同じ目をしていますよ? あんまり、変わっていないように見えます」
「――――っ」
そう指摘されて、息が止まった。
やっぱり、気のせいではなかったのだ。
今の俺は、中学生の時の俺に酷似している。
運命に抗わず、流れに流されて、意志を持たない人形のようになってしまっているのだ。
モブキャラか、主人公か、その違いはあるけれど
いずれにしても、傀儡の傀儡であることに変わりはない。
だから結月は、俺を認知した。
彼女にとっての『中山幸太郎』は、感情のないロボットのような人間として、認知されている。
だから、しほと出会った後の俺は、俺ではないように見えていたのだろう。故に、存在すら認知せず、他人として認識されていたのである。
(母親の次は、幼馴染か……)
過去の因縁はなおも途切れない。
鎖状に繋がり、俺を雁字搦めに束縛する――
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