第百六十八話 誰も悪くないから、タチが悪い

 叔母さんの勤める会社の会議室にて。

 俺と胡桃沢さんは二人きりだった。

 さっきまでは叔母さんもいたけれど、用事が済んだらすぐに出て行った。


 結局、俺のスマホも持っていかれた……つまり俺は、しほと連絡を取る手段を失ってしまったのである。


 それが悲しかったのだが、だからといって叔母さんに抵抗しない自分が情けなくて、不甲斐なかった。


「「…………」」


 気まずい無言の時間が続く。

 俺はもちろん、胡桃沢さんも何も言わずに、ただただ二人で沈黙している。


 まぁ、彼女の場合は、俺と違って何か言いたそうだ。

 いや、正確に言うならば、俺とおしゃべりがしたいんだろうな……と、傍から見てても分かるくらいに、挙動不審だった。


「……うぅ」


 ただ、俺がものすごく不機嫌だから、何も言えないように見える。

 何かを言いかけて、しかし無表情の俺の顔を見て、押し黙り、口を閉ざす。さっきからずっとその繰り返しだ。


 そんな姿が、余計に俺を惨めにする。

 別に、胡桃沢さんが悪いわけじゃない。むしろ彼女は、恋に真っすぐなだけで、根はいい子だと思う。


 だからこそ、やりにくいのだ。


「あの……ごめんね?」


 ほら、こうやって謝ってくる。

 胡桃沢さんは何も悪くないのに、腰を低くして、俺の機嫌を窺ってくる。


 媚びている、というわけではないのだろう。

 でも、そういう態度が、自尊心を肥大化させるのだ。ずっとこうやって接していると、いかなる状況においても俺の方が偉いと、そう勘違いする日が訪れるだろう。


 竜崎龍馬がそうだった。

 優遇されて、優しくされて、特別視されて、それらが全て当たり前だったからこそ、あいつは女の子の好意に鈍感になってしまった。気付かないうちに思いを踏みにじるような人間になってしまったのだ。


 今まではそれを嫌悪していたけれど、いざ自分がその立場になってみると……いや、やっぱり気持ち悪かった。


 こんな自分が、嫌いだ。


「中山がとても嫌な気持ちは理解してる。でも、諦めきれないから……その、たくさん償うわ。今、辛い思いをしている以上に、幸せにできるよう、がんばる。だから、ちょっとだけ……チャンスを、ください」


 ――どうしてこの子は、俺のことをこんなに好きになれたのだろうか。


「あの、別に家庭教師って言っても、一週間だけだから……それが過ぎたら、もうあなたを傷つけないと、約束する。でも、一週間だけは、私に中山を独占させて? 最初で最後のチャンスだから……絶対に、逃さないわ」


 一途で純粋な思いに、胸が痛くなる。

 奥ゆかしい発言に、奥歯をかみしめた。


 だから嫌なんだ。

 胡桃沢さんは、何も悪くない。いや、もっと言うならば、叔母さんも母親も、諸悪の根源というわけではない。


 みんな、各々の思惑があり、事情があって、行動した結果が『今』なのだ。


 でも、だからこそ俺は、誰も恨むことができない。

 怒りの矛先を他者に向けられないからこそ、自分自身を傷つけることしかできない。


 それが本当に、タチが悪い。


(一週間だけ、なら……)


 逃げ道がなかった。

 だから自分に言い聞かせて、受け入れるほかないと、思い込まされてしまう。


 これもまた、一種のご都合主義なのだろう。

 ふと気づくと、脳裏で胡桃沢さんの提案を受け入れるための言い訳を探していた。


(最近、しほに依存しがちだったし……あの子はインフルエンザで、ちょうど一週間は、会うこともないし、ちょうどいい機会なのかもしれない)


 ほら、結論が出てしまう。

 頑なに拒絶すれば、それで済むお話だけれど……そうなっては、物語が面白くない。


 中山幸太郎に、試練が課されている。


 しほだけを思い続け、他者を傷つけてなお愛し続ける『純愛』を貫けるのか。


 あるいは、他者の思いを受け入れ、多数の女の子を愛する『ハーレム』になるのか。


 今のところ、後者の方に物語は進んでいる気がする。このまま何もせず、流れに流されたら、やがてそうなってもおかしくはない。


 でも、まぁ……どこかで覚醒して、純愛ラブコメに軌道を修正するならば、それはそれでラブコメとして面白くなるのだろう。


 でも、いずれにしても俺が苦悩することは間違いなかった――








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