第百六十七話 最悪のシナリオ
想定できる限りの最悪のシナリオを描いてみる。
たとえば、俺の思想が捻じ曲げられて……仮に、胡桃沢くるりさんを好きになったとするならば。
その時、しほはどうするのだろう?
自分で言うのもなんだけれど、あの子はとても俺に好意的だ。しかもその思いの重さは尋常ではない。
ありがたいことに、彼女は俺をとても大切にしてくれている。
少なくとも、失いたくないと執着するくらいには、特別視されているという自覚もある。
だからこそ、しほは俺を切り捨てられない気がしてならなかった。
もしも、中山幸太郎が他の女の子『も』好きになってしまったのなら……そんな俺ですら受け入れてしまうのではないかと、考えてしまうのだ。
それは要するに、ハーレムの容認である。
メインヒロインの彼女がそれを認めたとするならば、もう俺のラブコメは後戻りできない。きっと、そのままハーレム主人公となり、歪な物語を展開することになるのだろう。
そして、胡桃沢さんの攻略が終わったら、次は別のヒロインが現れて……そのヒロインを攻略して、どんどんとハーレムメンバーを増やしていくのだ。
まさしく、かつてはハーレム主人公だった、竜崎龍馬のように。
でもそれは、絶対にありえない可能性の上に成り立つシナリオだ。
だって俺は、しほ以外の人間を好きになるつもりがない。
他の女の子を愛せるほど俺は器の大きい人間ではないのだ。
しほだけが特別だ。
あの子以外はいらない。
好きになんてなりたくない。
でも、そんな信念が捻じ曲げられないかと、不安で仕方なかった。
現在、俺の物語は軌道が歪められている。
幸せで、凪のように穏やかだった、しほとの物語は……しかし逆の見方をするならば、退屈で起伏のない平坦な駄作である。
物語に求められるのは『感動』だ。
葛藤、あるいは歓喜、激怒、落胆、絶望、挫折、覚醒……そういった大きな情動の延長線上に、カタルシスは訪れる。
だからこそ、主人公に選ばれた人間は多くの苦難を受けることになる。それを乗り越え、覚醒して、時には傷つき、傷つけ、その果てに幸福を手に入れてこそ、物語には感動が生まれる。そこまでしてようやく、駄作は名作となる。
そうするために、ラブコメの神様はご都合主義という理不尽な武器をかざして、キャラクターを追い詰める。無理なストーリーに強引な理由をつけて、過去の設定を伏線のように仕立て上げ、無理筋をあたかも常道であるかのように振る舞い、物語を紡ぐのだ。
今回だって、そうだった。
中山幸太郎の『親』という要素を伏線に仕立て上げ、母親という過去の葛藤を強調し、俺の自由意思を奪い、新たなヒロインを受け入れようとしている。
そんな理不尽に抗うための手段は、正直なところいくらでも思いつく。
一番簡単な方法は、母の言葉を無視することだ。胡桃沢さんの家庭教師も、スマホの取り上げも、否定すればいいだけの話である。
叔母さんも、俺が嫌だと言えばあっさりと引くはずだ。あの人は母に義理を通しているだけで、俺という存在に関してはまったく興味を抱いていない。不幸になろうと、幸福になろうと、どっちだっていいのだ。
だから、渡さなければいい。
手を差し出して待っている叔母さんを、無視すればいい。
「――――っ」
でもそれができるほど、俺に自由な意思は与えられていなかった。
抗おうとすればするほど……拒絶しようとすればするほど、余計に体が動かなくなる。喉がつっかえ、息が詰まり、過去の情景とあの時に感じた虚しさが、頭と心を満たすのだ。
『これ以上、母に失望されたくない』
そう思ってしまうのは、俺がまだあの人を親として大切にしているからだろう。
くだらない拘りに囚われて、結果的には自分の首を絞めて……一体俺は、何がしたいのだろうか。
「……渡せ」
分からない。
自分の意思に、霧がかかる。
ふと、眩暈がした。前によろめくと、叔母さんが俺を受け止めた。
「おっと……確かに、受け取った」
そして、気付いた時には、叔母さんの手に俺のスマホが握られていた。
無意識にポケットに手を入れてスマホを取り出していたのだろうか。眩暈と同時に前によろめいたせいで、叔母さんに差し出した……と、いう形になったのである。
――奪い返せ。
そう叫ぶ自分を、何者かが遮る。
思考に霞をかけて、俺の意思を鈍らせて、何も言わせないように裏で糸を引く何者かの存在に、抗う手段などなかった。
立場など、関係ない。
モブだろうと、主人公であろうと……俺はいつだって、操り人形だ。
だって俺は、ただのキャラクターでしかないのだから。
静かに、物語が進みだす。
ここからのラブコメは、俺にとって最悪のシナリオが描かれている。
何よりも嫌悪した『ハーレム』という名のラブコメだった――
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