第百七十一話 優しい時間
ずっとずっと、重たい場面ばかりで気が疲れていたのかもしれない。
数学の授業中、ぼんやりと黒板を眺めても、内容は全く頭に入ってこない。もともと頭も良くない上に、最近は悩んでばかりなので、勉強に身が入らないのも仕方ないだろう。
しほがいない学校生活は、とても重苦しくてシリアスだ。
このままずっと思い詰めていたら、気分が暗くなりそうだった。
だから俺は、彼女のことを考える。
記憶の中にある、大切なあの子との思い出を取り出して、優しいあの時間を振り返っていた――
霜月しほという女の子は、かわいいだけで結構なポンコツだ。
特に勉強を苦手としているので、小テストなどがあったら、前日にお勉強会をするのが日常となっていた。
その日もそうだった。
文化祭が終わってから一週間ほどが経過していただろうか。
翌日に数学の小テストを実施すると宣告されて、俺の家で勉強会をすることになったのである。
「う~! 幸太郎くん、お勉強なんてしたくないわっ。だいたい、数学のくせになんでxとかyとか英語を使っているのかしら? 詐欺よ、数学なら数字だけ使えばいいのに、理不尽だわっ」
まぁ、勉強嫌いのしほががんばるはずもなく。
いつものようにふてくされて、早々にシャーペンを投げ捨てていた。
「気持ちはわかるけど、文句ばかり言っても仕方ないぞ?」
「正論なんて言わないでっ。ハスラメントだわ……えっと、ロカジルだったかしら? ロカジルハスラメントってやつ!」
「……ロジカルハラスメントのことか?」
無理に難しい言葉を使わない方がいいとも思う。ちょっと、おバカが隠しきれていなかった。
「はぁ……幸太郎くん、おひざに座っていい? ねぇねぇ、イチャイチャしてもいいかしら? 大丈夫よ、二階のお部屋にあずにゃんがいるけれど、きっと気を遣って降りてこないと思うのよねっ」
「梓はしほのこと苦手らしいから、降りてこないと思うけど……まぁ、うん。イチャイチャしたら俺が成績を落としちゃうからなぁ。たぶん、しほのことが気になって、集中できない」
「あらっ。そんなにわたしに触れるのが照れるのかしら? うふふ♪ かわいい男の子ね……お姉さんとのスキンシップは刺激が強いかしら? だったら、手加減してあげるのが優しさってものだわ」
ニコニコと笑って、雑談を交わす。
勉強会をしていても、気付けばいつもこんな感じで、おしゃべりばかりしていた。
この日も変わらず、数学の教科書を開きながらも、俺達はずっと二人で見つめ合っていたのである。
「そういえば、しほって進路はどうするんだ? 勉強嫌いみたいだし……もしかして、就職するのか?」
しほはまったくといっていいほど勉強をしない。
危機感もないように見えるし、成績が悪いことをむしろ誇るような、不思議な子だった。
『中途半端な成績より、派手なおバカの方がかわいいでしょっ?』
と、謎の論理を語った時は、びっくりしたものである。
果たしてしほは、どんな未来の設計図を描いているのか。
問いかけると、彼女は迷いなく瞬時に答えてくれた。
「ええ、もう決まっているわ♪ うふふ……わたし、将来はお嫁さんになる予定だから、勉強なんてしないの。だって、大好きな人に養ってもらうって、そう決めているもの♪」
しほの綺麗な瞳は、真っすぐに俺へと向けられていた。
誰のお嫁さんになりたいのかは、言わなくても分かるでしょ?
そう言外に言われている気がして、顔が熱くなった。
しほは本当に、ずるい女の子である――
どうしてあんなに、愛くるしいのだろう?
こんな俺を彼女はいつだって笑わせてくれた。
しほが隣にいるだけで、とても心が温かくなった。
思い出のしほですら、俺をこんなにも元気にしてくれる。
(あんまり、状況は良くないけれど……)
一週間。たった一週間だけ耐えれば、また元の日常を取り戻せるのだ。
だから、ご都合主義にも、ラブコメの神様にも、負けない。
(……よしっ)
しぼんでいた炎が、再び燃えがるような。
そんな感覚を覚えて、俺はしっかりと顔を上げた。
でも、忘れてはならない。
ろうそくの炎は、消えかける寸前にこそ、一番勢いよく燃え上がるということを――。
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