第百六十五話 過去という鎖

 向かった先は、駅の近くにあるビルだった。

 叔母さんが勤めている建物である。


「幸太郎、降りろ」


 道中、説明は一切なかった。叔母さんは無言だったし、俺からも事情を探ることはなかったし、胡桃沢さんも何も言わなかったからだ。


 おかげで状況は分からない。

 ただ、俺は唇を固く結んで、叔母さんの言いなりになっている。


 脳内では母の言葉が何度も繰り返されていた。


『もうあなたには何も期待しない』


 あの時、俺はやっぱりショックだったのだと思う。

 大きくなった今もなお、その言葉を忘れられずにいる。


 胡桃沢さんの件では、どうも母が関わっているようだ。

 もうこれ以上、失望させたくない――なんていう思考が、抗う心を邪魔している。


 今もなお、俺は母という鎖に縛られていた。


「お前の母親は喜んでいたよ」


 車を降りて、叔母さんについていくように歩く。会議室のような場所に到着すると、やっと叔母さんが事情を説明してくれた。


「あの胡桃沢財閥が出資してくれるなら、と他の企業とも商談がスムーズに進んでいるらしい。これもすべて、お前のおかげだよ」


「……俺のおかげ?」


 いきなりそんなことを言われても、戸惑うばかりである。

 父と母が旅行関係の会社を経営していることは知っている。その運営が厳しくなっていることも、叔母さんが教えてくれた。


 ただ、その話に俺が出てくる理由が分からない。

 両親の仕事に協力したことなんてないのだけれど、


「お前が胡桃沢家のご令嬢と顔見知りだったおかげで、話を通すことができたんだ。本当に、助かった」


 なるほど……どうやら俺は『利用』されたみたいだ。


「父が言っていたわ。『本来であれば、商談する気にもなれない弱小企業だった』って……でも、そこの一条さんが私の名前を出して、それで気になったみたいね。こっちに連絡がきたわ」


 会議室の隅っこに座った胡桃沢さんが、静かな物腰で会話に参加してくる。


「『中山幸太郎という同級生はいるか? その親族がよろしくと言っている』なんて伝言がきたから……私は喜んで利用されてあげることにしたの。父に口添えして、なるべく良好な関係を築いてほしいってお願いしたわ」


「……何が目的なんだ? 胡桃沢さんに、どんなメリットがあってそんなことをしたんだ?」


「そんなの、決まってるじゃない……私の恋を叶えるためよ」


 まっすぐな視線が、俺を射抜く。

 ルビーのような赤い双眸は、不気味な光を放っていた。


「千歳一隅のチャンスだと思ったわ。難攻不落のあなたを陥落させるための手段がようやく手に入って、とても嬉しかった。やっと、あなたを手繰り寄せることができた」


 彼女は語る。

 静かな口調で、それでいて情熱を帯びた言葉が、紡がれる。


「私は利用されてあげた。その代わりに、あなたを要求したの……『中山幸太郎に家庭教師をしてほしい』って、ね? 商談の条件としてはとても破格でしょう? 一条さんも、それからあなたのお母様も……喜んでいたわ。あなたの意思なんて無視して、だけれど」


 ――ふと、胡桃沢さんの言葉を思い出す。

 先程、彼女はこう言っていた。


『どんな手段を使ってでも、私はあなたの『特別』になりたいから』


 その言葉通り、胡桃沢さんは手段を選ばずに、俺に仕掛けてきた。


「一条さんに聞いたわ。あなたとお母様の間に確執があって、過去の鎖に縛られているからこそ、言いなりになっていることを知っている上で……私はそれを、利用した」


 通常の手段では、届かない。

 俺の意思を捻じ曲げることはできないと、胡桃沢さんは理解している。


 それでも彼女はまっすぐだった。

 覚悟を感じた。たとえ、俺にマイナスの感情を抱かれようとも……無理矢理に自分という存在をねじ込まなければ、その思いが届かないと、分かっているのだ。


「こうするしかないのよ。霜月に勝つには……こうするしか、なかった」


 全ては、メインヒロインに打ち勝つために。

 三部でテコ入れされたヒロインは、かつてのどんなヒロインよりも……恋に真っすぐだった――

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