第百五十三話 彼が自分を否定するようになった原因

 車内にはタバコの臭いが充満していた。

 叔母さんはかなりのヘビースモーカーである。きっと座席に臭いが染みついているのだろう。


 その匂いに思わず顔をしかめてしまったが、叔母さんは気にすることなく電子タバコを吸っていた。運転中のことを考慮して、流石に車内で紙巻きたばこは吸わないようだ。


 まぁ、一番気にしてほしいのは、同乗者のことなのだが。


「……窓、開けますよ」


 言って、許可も待たずにスイッチを押す。窓を開けると、気分がいくらかマシになった。

 そこでようやく、叔母さんは俺がタバコを嫌がっていることに気付いたらしい。


「ああ、そうか。お前はタバコの臭いが苦手だったな」


「……得意な人間はなかなかいないと思いますけど」


「だろうな。まぁ、我慢しろ……あまり寝てなくてな。ニコチンを摂取してないと意識が飛びそうなんだ」


「冗談でもそういうのはやめてください」


 息をつく。しかし叔母さんは肩をすくめるだけで、これ以上は何も言わなかった、冗談なのか、本気なのか、分かりにくい人なのである。


「……そんなに吸ったら、健康を損ないますよ?」


「知ってる。小僧に説教されなくてもリスクくらい承知している。とりあえず、事業が安定したらやめる努力をするさ」


「……ぜひそうしてください」


 叔母さんはかなりの仕事人間だ。

 ビジネスとキャリアにしか関心がなく、自分の健康なんて二の次なのだろう……そういうところが、あまり好きじゃなかった。


 彼女だけではない。

 叔母さんの姉である、俺の母親も似たような人間である。


 あの人も仕事を何よりも優先する人間だ。

 愛していないわけではないけど……そういう部分が、とても苦手だった。


「ああ、今は事業が安定していなくてな……うちの会社、つまりお前の両親の経営している会社が、ボロボロなんだ。忙しくて目が回りそうなのに、私に子守りまで押し付けるとは、お前の母親は本当に鬼畜だ」


「……そうだったんですか」


 両親が旅行関係の会社を経営していることは知っている。事業を安定させるために、海外を飛び回っているたとも、把握している。


 でも、それが上手くいっていないことは、初耳だった。


「ここ数カ月で業績が悪化していてな……そんなんだから、姉もイライラしているんだろう。この前、お前がスマホを購入したことを伝えたら、怒鳴られたよ」


 苦笑するように笑って、叔母さんは煙をふかす。

 それから電子タバコを置いて、ハンドルを操作しながら、俺にこんなことを伝えた。


「『遊んでばかりいないで、真面目に勉強しなさい。あなたを育てるにもコストがかかっていることを知っているでしょう? なら、少しでも早く返済できるように、努力しなさい』――だとさ」


 恐らくは一字一句、母はそう言ったのだろう。

 その言葉が理不尽であることは、叔母さんも気付いているようだ。


「バカバカしい。子育てにリスクとリターンを考えることがそもそも間違っていると思うのだがな……あれでも、お前の母親だ。運が悪かったと思って諦めるしかないな」


 他人事のようにそう呟く叔母さんにつられて、俺も苦笑してしまった。


「……相変わらずですね」


 本当に、あの人は変わらない。

 久しぶりに俺を気にかけてくれたのかと思ったら、これだ。

 自分の産んだ子供が、今どんな感情を抱いていて、どんな風に成長しているのか……そんなこと、母は気にならないのだ。


 気になるのは、俺のステータスだけなのだろう。

 そういう観点でしか、母は物事を見れない人間なのである。


 俺を育てるコストを、将来どのように返済させるのか。

 俺という人間に投資した資金を、どのように回収するのか。

 俺という人間を育てたリスクに対して、どのようなリターンを見込めるのか。


 そういう部分にしか、あの人は興味がないのだ。


 母はいつもそうだった。

 いや、それがあの人にとっての『愛情』だったことは、理解している。

 歪んではいるけれど、母はなんだかんだ俺のことを愛そうとしてくれていた。だから俺も、あの人の事は大切に思っている。


 少なくとも、幼い頃の俺にとって……母親は、神に近い存在だった。

 あの人に認められたくて、一生懸命努力をした。勉強も、運動も、言われた通りに、がんばった。


 だけど俺には何一つ才能がなくて、いつも成績は下位クラスばかりで……そんな俺に、母は失望した。


『もうあなたには何も期待しないから……まぁ、頑張りなさい。せめて、人並みの人間になれたらいいわね』


 今でもよく覚えている。

 期待することを諦めた母の目は、心底冷たかった。


 思い返してみると、あれがきっかけだったように思える。


『俺は、何もできない人間なんだ』


 その時初めて、俺は自分を否定した。

 以来、俺は自分に自信が持てなくなって、卑屈な人間になった。

 そうして、自分を肯定することができなくなって……結果的に、俺は自分を『モブキャラ』だと思うようになった。


 つまり、母が俺をモブキャラにした、原因だったのである。

 高校生になって関わりが薄くなり、しほのおかげでまた自分を肯定できるようになった今……あの人と関わることが、怖いと感じた。


 母のことは嫌いではない。

 でも、得意か苦手かと聞かれたら、間違いなく苦手と言えるだろう。


 それくらいあの人は、歪んでいるのだから――





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