第百五十話 引き伸ばし

 すぐ目の前で、胡桃沢さんが心配そうに俺を見つめている。


「中山? 鼻、大丈夫?」


 細い手が伸ばされて、俺に触れようとしてくる。

 慌ててのけ反ると、彼女はきょとんとしたように首を傾げた。


「ん? なんでそんなに警戒してるの? 私、別に何もしないのに……」


「いや、大して深い意味はないんだけど……」


 まずい。なんて言えばいいのか分からない。

 好意を寄せてくる女の子との接し方なんて分かるわけがない。

 大抵の女の子は、俺に対して無関心だった。好意を寄せてきた子なんて、しほだけだったのだ……彼女になら、好意を返せばいい。だってしほは、俺にとって特別な人間だから、そうするのが当たり前だ。


 でも、胡桃沢さんは違う。

 今日出会ったばかりで、まともな会話もしたことがないというのに……彼女は明らかに、俺のことを特別に思っている。


 それが不気味だった。

 理由のない好意って、意味が分からない。


 とはいえ、だ。

 人間は与えられた感情をそのまま返す性質がある……嫌われたら嫌いになるし、好きになってくれたら好きになりやすい。

 だから普通の反応を考えるなら、好意を返すのが正しいのだろう。


 でも、胡桃沢さんを好きにはなれない。

 だって俺には、しほがいるのだ。しほを差し置いて好意を返すわけにはいかない。

 そのせいで、彼女に対する接し方が分からずにいた。


「それはつまり、触れてもいいってこと? だったら……遠慮なく、触っちゃうけどいい? べ、別に、特別な意味はないのよ? ただ、なんとなくっていうか……とにかく、手を握らせて?」


 もう一度、彼女が俺に触れようとしてくる。

 しかし、それを許せるほど、俺はしほの感情に対して鈍感になれはなかった。


(きっとしほは、俺が他の女の子に触れたら悲しむ)


 それを知っている。

 俺は竜崎龍馬にはなれない。

 鈍感なあいつなら、今の状況でも平気でイチャイチャできるのだろうけど。


 俺はどちらかというと、敏感なのだ。

 だから、やっぱり……彼女の思いを、受け止めることはできなかった。


「ご、ごめんっ」


 もう一度、後ずさる。

 胡桃沢さんの手は、俺の手を握ることなく……空を掴んだ。


「……そんなに、イヤなの? なんで? できれば、理由を教えて?」


 しかし胡桃沢さんは怒らない。

 ショックを受けていると言うよりは、なおさら前のめりになっているような気がした。


 冷静に俺が嫌がる理由を探ろうとしている。現在地を把握しようとするように、俺の感情を知りたがっている。


 感情的になってくれた方がまだやりやすかった。

 冷静に分析するその様が、彼女の本気度を表している。


 どれだけ長期戦になっても、関係ないと言わんばかりに。

 俺の心に触れるためであれば、どんなに時間をかけようと、その価値があると言わんばかりに。


「もしかして……付き合ってる人がいたりするの? だから、他の女子と触れ合うことはできないってこと?」


 臆せず、彼女は切り込んでくる。

 その勇気に、気後れした。

 本気の感情をぶつけられて、狼狽えてしまった。


 でも、ここで流れに流されては、意味がない。

 しほを悲しませるくらいなら……目の前の少女を傷つける覚悟だって決められる。


 だから俺は、正直に答えたのだ。


「大切な人がいるんだ。俺が君と触れ合ったりしたら、きっと彼女が悲しむから……その気持ちに、応えることはできない」


 心苦しくないと言えば、嘘になるだろう。

 でも、俺には誰よりも優先したい人がいる。

 その子を悲しませるくらいなら、いくらだって心を鬼にする。


「ごめん」


 ハッキリと、拒絶する。

 しかし彼女は、まるで俺の答えを分かっていたかのように、力強く頷いた。


「やっぱり、そうなんだ」


 今までのやり取りで、覚悟はしていたようだ。

 そして胡桃沢さんは、落ち込みもせずに……更に一歩、俺へと詰め寄ってきた。


 その瞳には、燃え上がるような闘志が宿っていた。


「でも、私が聞きたかった答えは、それじゃない。『付き合っている人がいるのか』を、教えて? 中山にとってその子は恋人なの?」


「……恋人では、ないけれどっ。限りなく、それに近い人だよ」


 嘘は言えない。

 俺たちはまだ、付き合っていない。

 しほが関係の進展を急いでいないから、それに合わせている。


 だけどそれが仇になったようだ。


「……なんで? そんなに大切にしている人がいるのなら、付き合うのが普通でしょ? 他の女子に触れることができないくらい、中山はその子を大切に思っているのに……どうして付き合ってないの?」


 更に深く、えぐってくる。

 俺としほの関係性にある、わずかな歪みを突いてくる。


 違うんだ、胡桃沢さん……本当に大切だからこそ、俺達はゆっくりと関係を進展させていきたいんだ。


 と、理由を教えた。

 いや、言わざるを得なかった。

 勘違いしてほしくなかったのだ……俺がしほに抱いている思いが決して軽いものではないのだと、説明した。


 だが、それすらも彼女にとっては、追い風にすぎなかったらしい。


「ありえない」


 一言、彼女は断ずる。


「中山がそんなに大切に思っているのに……好きでいてくれてるのに、その子はどうして受け入れてあげないの? 愛が重いから壊れちゃう? もっと愛されたい? そんなの、ただのわがままでしょ? 中山のことを本当に大切に思うのなら……どうして、あなたの思いを満たしてあげようとしないの?」


 しほの思いが、否定される。

 それは、俺にとっても最も嫌なことだった。


 俺のことはいくら悪く言ってもいい。

 でも、しほのことだけは、許せない。


「あの子だって、真剣なんだよっ……俺のことを心から大切に思っているからこそ、失敗しないようにしてくれてるんだ!」


 語気が荒くなる。

 乱暴な態度に、普通の女子であれば怯えてしまうだろう。

 だけど胡桃沢さんは、気丈に俺を真正面から見据えていた。


 怯むことなく、億すことなく、怯えることなく、俺に向き合っている。


「中山がそうやって甘やかすから、今の関係に落ち着いてるんでしょ? ねぇ、あなただって本当は分かってるんじゃない……? その子は、中山の優しさに甘えてるだけだよ。だってそんなの、おかしいもん」


 今まで、俺としほの関係性は不可侵のものだった。

 神聖な領域として、ずっと守られていたはずだった。


「そんなに大好きでいてくれるあなたを、拒絶するその子が私には許せない。だって、そんなの……ただの『引き伸ばし』でしょ?」


 でも、そこに彼女は切り込んでくる。

 正論という刃をかざして、正面から立ち向かってきたのだ――

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