第百三話 彼女のいない物語

 しほの頭を撫でながら、囁くように言葉を紡ぐ。


「寂しい思いをさせちゃってごめんな?」


 すると彼女は、はにかむように小さく笑う。


「えへへ……寂しかったけど、なでなでしてくれたから許してあげるわっ。わたし、なんだかとっても幸せな気分なの。胸が熱くて、体がぽかぽかしてるのよ?」


 もう九月も終わりを迎えるというのに、しほはほんのりと汗をかいていた。頬も真っ赤で、吐く息もどことなく熱っぽい気がする。


「ちょっと、窓を開けるわね? じゃないと、このまま溶けてなくなりそうだもの」


 そう言って彼女は、カーテンをわずかにずらして窓を開けた。

 涼しい風が室内に入ってくる。しかし、しほの顔は赤いままだ。


 それだけ、高揚しているのだろう。

 俺に触れられただけでこんなに喜んでくれる女の子が、はたしてこれから先に現れるのだろうか?


 いいや、ない。

 そう断言できる。それくらいしほは、俺のことを大切に思ってくれている。


「でも、だから今日も帰っちゃうのかと思うと、胸が苦しいわ……ねぇ、幸太郎くん? うちのペットにならない? 三食おいしいごはんつきよ? あと、わたしがきちんと面倒見るし、お散歩も毎日行くから、どうかしら?」


「そ、それはちょっと……」


 冗談、だよな?

 まぁ、冗談ということにしておこう。しほは愛情深いから、そんなことも考えてしまうのかもしれない。


「でも、うん。いつもいつも、門限までしか会えないのは、寂しいなぁ……俺も、しほともっとおしゃべりしたいよ」


「本当!? じゃ、じゃ……幸太郎くんもスマホを買ってくれる? わたしね、実はずっと期待してたのよ? あずにゃんとのやり取りだけじゃ、物足りないの。わたしね、幸太郎くんといっぱい連絡を取りたいのっ」


 ――思い返してみると、授業中に続いている『交換日記』でも、しほは楽しそうにしている。きっとスマホでもたくさん伝えたいことがあるのだろう。


「でも、わたしって……ほら? ちょっとだけ、めんどくさいでしょう? だから、幸太郎くんがスマホを買ったら束縛しちゃうかもと思って、あんまり口に出せなかったの」


 確かにしほはあまりそういうことを言わなかった。それとなく『スマホを買ったら?』くらいのことは言っていたけど、こんなに熱望しているとは思っていなかった。


 一応、彼女なりに気を遣ってくれていたらしい。


「今は忙しいかもしれないから仕方ないけれど……文化祭が終わったら、買ってくれる? わたしといっぱい電話したりメールしたりしてくれる?」


「ああ、そうだな。俺もそろそろ買おうかと思ってたんだ。文化祭が終わったら、一緒に買いに行こう」


 頷くと、途端にしほは立ち上がった。


「やったー! うふふ、ありがとっ。これでやっと夜も幸太郎くんにかまってもらえるわ♪」


 はしゃぐように飛び跳ねて、今度は俺に飛びついてきた。


「おっと」


 慌てて受け止めると、そのままベッドに倒れ込んでしまった。

 彼女は俺の胸に頬をこすりつけながら、ギュッとしがみついている。


 その顔は相変わらず真っ赤だった。

 まるでゆでだこみたいである。


「「…………」」


 少しの間、無言で抱きしめ合う。

 しほの体は小さくて、ガラスみたいにすぐに砕けそうだけど……熱くて、柔らかくて、いい匂いがした。


 そんな彼女は、俺の胸に顔を埋めながら、くぐもった声でこんなことを言う。


「こ、興奮しちゃって鼻血が出そうだわ……今日は眠れないかもっ」


「いや、ちゃんと寝てくれよ? これ以上遅刻したりずる休みしたら、一緒に進級できなくなるかもしれないし」


「それはダメっ。わたし、幸太郎くんと同じクラスがいいもんっ……あ、でも、幸太郎くんの後輩になるのもいいかも? せーんぱい♪なんて呼べたら、素敵かなぁ」


 ……確かに、それはそれでかわいいかもしれないけれど。


「でも、一緒の時間が減るのは寂しいな」


「それもそうねっ。だったら、お勉強もがんばらなくちゃっ。夜は電話するから、いっぱい教えてね?」


「俺が分かる範囲なら喜んで」


「えー? 分からなくても電話するわっ。それでいっぱいおしゃべりしましょう?」


「それも楽しそうだな。まぁ、勉強はできないと思うけど」


「うふふ、それもまたお勉強のだいみご?というやつねっ」


「醍醐味、な」


 ――他愛ない会話に、心が癒される。

 少し寂しそうにしているけど、しほは元気だ。

 宿泊学習の時みたいに、辛い思いはもうしていない。

 竜崎とも無事に縁を切ることができて、最近のしほはとても楽しそうだった。


 本当に、良かった‥…今、竜崎のラブコメにしほはいない。物語の外で、のんびりと過ごしている。


 俺はめんどくさい立ち位置にいて、色々と巻き込まれているけれど……彼女が幸せであるということが、何よりも嬉しい。


 まぁ、彼女のいない物語は、想像以上に谷ばかりというか……全体的に重くなりがちだけど。


 でも、それでいい。それがいい。しほが幸せであるということが、俺にとっての唯一の願いなのだから――

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る