フリーパスと観覧車
天笠愛雅
ある平日のこと
今、目の前にいる女性は誰なのだろう。ふと、現実に帰りそう思った時には、もう後戻りできなかった。観覧車は頂点に達した。
意味もなく車を走らせていた。起きたのは十時頃だろうか。もはや時計を見ることすら億劫で、時間も確認せずに家を出た。その辺にあった食パンを適当にトースターにかけ、チューブのバターを少量だけ塗って食べてきた。運転席に座りハンドルを握ると、不思議と心の中の靄が晴れる。食パンによってむかつく胃もどうでもよくなる。
バイパスを真っ直ぐ走っている。特に行く当てもない。ただ、今日は何かおかしなことをしたい気分だった。常人ではしないような何かを。
三、四十分運転し、到着したのは遊園地だった。平日でさほど混んではいないが、決して来園者が少ないという訳でもない。私はフリーパスを買い、雑踏の中へと紛れ込んでいった。
一人でこの遊園地に来る人間などよほどのマニア以外ほぼいないだろう。
ベンチに座って、入園ゲートで係のお姉さんに見せたフリーパスを免許証や定期券の入っているパスケースにしまう。それと引き換えに煙草とライターを出す。煙草に火を点けると、煙が灰色に濁った空へと吸い込まれていった。回っているメリーゴーランドを意味のない映像として見ながら灰を落とす。フリーパスを買い、真っ先に喫煙所へと向かう大人は私くらいだろう。
大学生くらいのカップルを横目に見ながら二本目に火を点けようとしたとき、隣に女性が座った。私からして少し年上のように感じられた。しかし、なぜ私が座っているベンチの他にも三脚あるというのに、わざわざ隣に来たのだろう。多少居心地が悪くなってしまったので、私は煙草を箱にしまってメリーゴーランドの方に向かおうとした。
「きみ、一人でしょ」
隣に座ってきた女に私は話し掛けられてしまった。そんなことを訊いて、彼女は私をからかっているのか?
「はい」
私は彼女の顔をろくに見ずに素っ気なく返事をした。
「ねえ、遊ぼうよ」
私の返事に対してそう言ってきた彼女に私は言った。
「いいですよ」
地雷メイクと言うのだろうか。目の周りが紅い。口元は黒マスクをしているから確認できない。はっきり言って、東京の街中を歩いていればいくらでもいるような女だ。私は女に対してさほど好き嫌いがない。長らく付き合っている彼女さえいるものの、女と遊べたら運がよいという不埒な思考を持っている。
クズだ。その自覚はある。ただ、残念ながら人見知りで、結局のところその道徳から外れた考えは妄想で止まっていた。しかし初めて、妄想が現実になったような事柄が今起こっている。私の鼓動が速くなっていることが分かった。
向こうが誘ったわけだから、向こうから話してくるだろう。そう思っていた。が、彼女は一向に口を開く気配を示さなかった。淡々と彼女の半歩後ろに付いて歩いていた。しばらくすると観覧車のふもとへと着いた。
「乗ろう」
彼女は私がフリーパスを持っていることを知っているようだった。彼女の視線の先は私のズボンの右ポケット、それはパスケースを入れているところだった。私たちは係員にフリーパスを見せ、待ち人数ゼロ人の赤い観覧車に乗り込んだ。
ドアが閉められロックされた。知らない女性と二人で何をしているのだろう。施錠音とともにそんな思いが湧いてきた。多少の恐怖感と興奮が入り混じった感情を持ちながら、私と彼女は上昇していった。
「この後時間ある?」
女は私に訊いた。
「ありますよ」
「そっか」
長い時間を掛け、観覧車はようやく頂点に着いた。特にいい景色という訳ではない。園内とそれを囲む木々とその外に広がる街が見えるだけだ。自分の住むところと大して変わらない街を上から眺めたところで、何にもならない。優越感などは存在しない。結局は現実の中を遊覧しているだけなのだ。私は軽いため息をついた。女がちらりとこちらを見たような気がした。
貯金を切り崩しながら生きている私にとってフリーパスは決して安いものではなかった。観覧車に乗るためだけなら、うんと安く済んだ。まあそんなことはどうでもいい。昼飯も食わず、私は女を助手席に乗せて車を走らせている。不思議と一人でアクセルを吹かしこんでいる時よりも静かで、この空間が世界から切り離されているように感じる。彼女はお互いのことを知ろうともしない。私も知ろうとは思わない。だが、日が沈み、そしてまた日が昇って別れた後も、この女とはまた会うだろう。都会の雑踏の中で静かに会うだろう。
フリーパスと観覧車 天笠愛雅 @Aria_lllr
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