第78話 運命の鐘が鳴り全てが動き始める。
馬を飛ばし向かった先、エレーラのルーゴ伯爵邸は静かだった。
娘が死の淵を漂っているというのに館には悲壮感すらない。いつもと同じ日常があった。
当主一族はまだしも、使用人たちにも何の変わりもない。
(フェリシアがどれだけ軽んじられているか、ということだな)
「レオン様!」
フェリシアの姉カロリーナが喜色を浮かべ駆け寄ってくる。
これも変わりがない。
「カロリーナ殿、フェリシアは? 生きているのか?」
「ええ、まだ……」
まだ?
「お兄様たちと遠乗りしていた時に急に狐が現れて驚いた馬がフェリシアを振り落としたんです。ひどく頭を打ったようで……」
「意識が戻っていないということだね」
「そうなのです。もうダメかもとお医者様が」
カロリーナがわざとらしく俺に寄りかかった。
適齢期に入り配偶者としての俺を彼女は望んでいるのだ。
これもいつもと同じだ。
俺がフェリシアを婚約者として指名したのが1ヶ月前。
ルーゴ伯爵側としてはその座に着くのはカロリーナでありフェリシアではなかったのだろう。完全なる想定外だったらしい。
タイミングよく事故が起こり、あわよくば妹の代わりにと考えているのだろうが……。
(ここまであからさまだとフェリシアが気の毒だな。意識がないのが幸いだと思うべきかな)
血の繋がった者の痴態を見せるのは忍びないものだ。
(自分の目で確認しなければ)
フェリシアが生きていることを。
「教えてくれてありがとう」とカロリーナを引き離し離れに急いだ。
フェリシアは粗末なベッドに寝かされていた。
ただ眠っているかのように穏やかな表情で。
だが現実は違った。
顔色は悪く頭に幾重にも巻かれた包帯には血が滲み、ベッドサイドには血で汚れた包帯やガーゼの山ができている。
事故がどれだけ凄惨であったか想像に易い。
「アンドーラ子爵様」
フェリシアの世話役であり乳母のビカリオ夫人が瞳に涙を溜めたまま頭を下げる。
「申し訳ございません。お嬢様はあまり良い状態ではございません。事故から一度も意識が戻られないのです」
「……でも生きている。そうだろう?」
俺はフェリシアの手首に触れる。
弱いが確かに脈はある。
「ビカリオ夫人、医者はなんと?」
「幸いにも体に骨折はないと。ただ頭の怪我が……。出血は治りましたが頭を強く打っているので、どうなるかは分からないとおっしゃっておられました」
「そうか」
とにかくフェリシアは重体だが生きている。
生きていてくれてよかった。まだ希望はある。
俺は婚約者の頬を撫でる。
(温かいな)
そしてなんと愛らしい。
黒い髪も頬に影を落とすまつ毛も。
これほどまでに美しい女性だったのか。俺は条件ばかりを見て、フェリシア自身は見ていなかったのではないか。
このまま失うことになったら……。
きっと後悔する。
(ダメだ。フェリシア。きみは生きなくては)
手の甲で血の気のない唇に触れる。
細い息を注ぐ唇は柔らかくほのかに温かかった。
(きみが元気なうちにもっと優しくすべきだったな。例え愛はなくとも、きみは軽んじていい存在ではなかったのだからね)
今までは間違っていた。
目を覚ましたら、今度はとびきり甘やかしてやろう。
サグント侯爵家の婚約者らしく。最上級の品で身を飾り、最上級の女性であることを知らしめよう。
俺は脱力したフェリシアの手を握る。
その時。
大きな音を上げて扉が開いた。
「旦那様! お取込み中、失礼いたします」
秘書官が飛び込んでくる。
(せっかくのフェリシアとの時間を邪魔してくる無粋者め。後で罰してやらねば……)
いや待て。
あれほど優秀な秘書官が礼儀知らずなことをしたことがあるか?
ない。
何か重要な案件でも起こったというのか。
「急ぎか?」
「はい。火急の要件でございます」と秘書官はビカリオ夫人に目配せをする。
夫人は黙って頷き退室した。
部屋の周辺から人の気配が無くなったことを確認し「話せ」と促す。
秘書官は胸元のポケットから小さく折り畳まれた紙片を取り出し、
「マンティーノスの草から報せが入りました。お目通しください」
「マンティーノスから?」
紙片を受け取り、俺は目を見開いた。
「……これは。運が向いてきたか」
そこにはマッサーナ家だけで使われる暗号で、『二日前、エリアナ・ヨレンテ女伯が死去』とだけ記されてあった。
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