閑話 レオンの謀は巡る。
第76話 善良で無知な婚約者。
今回は番外編になります。
物語が始まる前、レオン目線のお話です。
書類にあるホアキン・ペニャフィエルという名にはどこか聞き覚えがあった。
(出会った相手は大抵は覚えているが……)
この名には皆目見当もつかない。
だが、記憶があるのは確かだ。
最初はその姓のせいかとも考えた。
ホアキンはありふれた名だがペニャフィエルというのは珍しい姓だ。
一度聞けば頭には残る。
(カディスでペニャフィエルを名乗る家はトラジャディージャス伯爵家のみだ)
となればホアキンという男はそこの家の出なのだろう。
問題はその男とどこで出会ったのか、だ。
「レオン様とペニャフィエル氏は年もそう変わらないようですから、セルベーラの
男性秘書が湯気の上がる茶を置きながら答えた。
「あぁそうかもしれないな」
俺は再び書類に目を落とす。
去年から密かにマンティーノス領を調査をさせていた。待ちに待った報告書が届いたのは一時間ほど前のことだ。
その辞書ほどの厚みのある『マンティーノス領に関するご報告』と題された書類の中程に、ホアキン・ぺニャフィエルという名があったのだ。
「次期ウェステ伯爵の婚約者か……エリアナは去年の
ウェステ女伯爵エリアナ・ヨレンテ。
黒曜石のように黒く艶やかな髪と深い青い瞳が印象的な随分と気の強そうな美人だった。
一言二言交わしたが、高慢で怖い物知らずな危うい印象を受けた。
理由がわからなかったが、今回報告書を読んで納得する。
伯爵である母を若くして亡くしたために爵位を継承しないままに表に出ることもなく育てられたらしい。
成人の年となる来年、ようやく伯爵位に就くと決まったそうだ。
生意気なエリアナが同じ立ち位置に現れる。
(エリアナのあの鼻っ柱を叩き折ってやったら、どんな顔をするのだろうか)
泣くのだろうか。
激昂するのだろうか。
それとも氷のような眼差しを向けるのだろうか。
少しばかり興味がわく。
「報告書にも記されておりますが、エリアナ・ヨレンテ様はルーゴ伯の御令嬢フェリシア様の姪御様になられるようですよ」
「フェリシアの?」
幼馴染のフェリシアはルーゴ伯の私生児ーーしかも血の繋がらないーーである。
伯爵夫人がヨレンテ伯爵と恋人関係にあったことは社交界の一部の層では周知の事実だった。
その証に明るい髪がトレードマークのルーゴ家において、フェリシアは唯一の黒髪で碧眼だ。
「言われてみればれば面影がよく似ているな。フェリシアの方が幼い感じはするが」
「教育と経験の差でございましょう。フェリシア様は隔離された
こちらの書類の裁可をいただけますか、と秘書官が書類を差し出した。
ざっと目を通し、サインを入れる。
俺はふと手を止めた。
「ペニャフィエル、思い出したぞ」
(あの男か)
貴族や上流階級の男性は六歳前後で寄宿学校へ入学するのが慣例だ。
サグント侯爵家の嗣子である俺も例外はなく、六歳から十七歳まで寄宿学校で生活していた。
その同じ寄宿舎の後輩でやけに見た目が良い天使のように清らかで端正な男がいた……ような。
(確か俺に対抗するグループの一員だったな)
十代の学生というのは独特の思想に支配されるものだ。
思春期ということもあり高い自意識の下で全てにおいて対等でありたいらしい。
俺の周囲にも意味もわからぬ派閥ができていた。
実力だけでなく家柄も財力も全く敵わないというのに、やたらと突っ掛かられて面倒臭い思いをしたものだ。
ペニャフィエルは容姿は飛び抜けていたが、他はこれと言って特質はなかった。
グループの隅の方で過ごし存在感はなかったように思う。
「あんな小物がエリアナの婿になるのか。もったいないな」
如何にも不釣り合いではないか。
マンティーノスの女王には相応しくない。
あの領を治める主人には俺のような……。
「レオン様。ご婚約はウェステ伯爵代理殿の強い勧めから決められたようです。ヨレンテ家のお考えがあるのでしょう」
秘書官が非難がましく言う。
「わかってる。部外者が口を出すことじゃない。ただ惜しいだけだ。フェリシアにエリアナの強さがあれば心から愛してやれると思ってしまってね」
「……多くを望んではなりません。ありのままをお大事になさることです。フェリシア様は明るくお優しい。きっと良い母親になられるでしょう」
「ああ。確かに。良い母親になるだろうね」
善良で思いやりのある母親に。
だが妻としては退屈でたまらないだろう。
(それでもいい。俺がフェリシアに求めるのはヨレンテの継承権だけだ。人生を同じ目線で生きる配偶者ではないんだ)
いつか狂おしいほどに慕う相手が現れると夢想する年頃はもう過ぎた。
あとはただ現実を見据えるだけだ。
淡々と、静かに。
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